第1章 プロローグ
いつからだろうか。
自分の中に別の誰かが存在している様な、何かに身体を支配されている様な、そんな感覚を覚えるようになったのは。
芯の髄から、何かが自身を塗り替えていく様なそんな感覚。頭の中で何度も自分を呼ぶ声に、何度も支配されていく。
「美代」
男の人の声。甘く、柔らかに、それでいてどこか色欲を孕んだ艶やかな低音。心地が良く、何度もその声に名前を呼ばれたいと夢想する。
もう一度、と縋る様に声鳴る方へ足を進めれば、またしても名前を呼ばれる。
彼は、一体誰なのだろう。
頭の中で、何度も何度も名前を呼ばれる。
そして、暗闇の中で手を差し伸べられるので、必死に腕を伸ばして求めている。自分の意思、本能と言ったほうが正しいだろうか。
そして腕を伸ばして絡み合う指先、縺れるように倒れ込む二人の身体。冷たい水の中に沈んでいく感覚は、まるで溺死してしまうかの様な虚像を創り出す。水が胃に入ることを拒み、肺に、気管に紛れ込み誤嚥を起こした。あまりの苦しさに呼吸するのも許されぬまま、視界が霞んでいく。
そして、いつもそこで夢の世界は終わる。
「また逢いに来ればいいだろう」
「また、逢えるの?」
「お前が望めば逢える」
男は欲しい言葉を与えてくれる。
だから、また夢見る日まで、空虚で平和な日々が流れるのを感じていた。そうすれば、早く幸せな夢を見れるから。
しかし、やはり、何かがおかしいのだ。
その夢を見るたびに、自分が自分では無くなっていく。幸せを感じているはずなのに、身体の中から侵略されていくのを同時に感じていた。それは、まるで呪いのように自身を壊していく。骨の髄から骨格の形も、何もかも塗り替えられていく。
蜘蛛の巣にかかった哀れな蝶は、足掻くことも許されず糸に絡まったまま安らかに眠りに落ちた。
何も分からぬまま、月日が経っていく。本当にあっという間に、気付かぬうちに。何かを予感させぬ間も与えぬ隙に。
そして、気づけば蝶は蜘蛛の一部になっていた。