第10章 潜入 *
言うつもりはなかった。叶うことはないと分かっていたから。
秘めている気持ちまでは誰にも覗けないのだから、誤魔化していれば杏寿郎の傍に居られると思っていた。
いずれ相応の女性が見つかる。その時が来たら自分は杏寿郎とは関わらずに生きようと考えていた。でも、傍に居れば居るほどに離れがたくなってしまった。
「杏寿郎様のおかげで絶望から何度も抜け出せました。それを感謝こそすれ、こんな気持ちを抱くなど…身分不相応とは重々感じております」
煉「誰かがそう言ったのか?俺はそんなに高尚な人間ではないぞ。月奈も良家の人間ならば身分に大差はない、寧ろ月奈の家柄が上ではないか?」
家族がいないことに引け目を感じているのならばおかしい話だ。病気で家族を亡くすこともある、現に杏寿郎は母を亡くしている、世の理の中ではごく普通のこと。
煉「家族がいないからか?体に傷があるからか?稀血だからか?何がそこまで君に引け目を感じさせる」
「その全てです。それに、受け取った優しさに対して返せる物を私は持っていませんから心苦しいのですよ」
伏せた瞳には諦めが見える。まるでいつ死んでもどうでもいいというような諦め。周りが守れるなら自分は死んでもいい、と考えるのは自己犠牲が強い証拠だ。
ー何も持たないのは環境ではなく、自らの意思で持たないようにしているのか。いつでも手放せるように。
煉「…俺が守ると言っても君は嫌がるんだろう?それならば一つだけ、俺と約束してくれないか」
「…約束、ですか?」
煉「どれだけの傷を負っても、生きている限り俺の所に帰ってきてくれ」
顔を上げると、揶揄っているわけではないと分かる真面目な表情をした杏寿郎が見つめてくる。体を離して杏寿郎の両手を取ると月奈は真っすぐと杏寿郎の目を見つめて微笑む。
「必ず、杏寿郎様の元に戻りますね。その代わり、杏寿郎様も私に帰ってきてください。お互いに帰る場所が無ければ帰れませんからね」
眉を下げ杏寿郎は、それは確かに。と笑う。
顔をゆっくりと近付けて、額をくっつけた杏寿郎は小さく呟いた。
煉「約束、してくれるか?」
間近で杏寿郎の瞳に見つめられ月奈は少し恥ずかしそうに微笑む。
「…はい。杏寿郎様も約束、です」
勿論、と囁いて杏寿郎が微笑むと二人はゆっくりと唇を重ねた。