第10章 潜入 *
着物の裾を滑らせ膝立ちで近付いてきた月奈に、杏寿郎は少し後退りする。月奈の手が眼帯を一撫でして杏寿郎の後頭部に回った。ハラリと眼帯が落ちると、紐が解かれたことが分かる。
煉「…何を…」
「私を見る目が、あの男とは違う…同じではないのにどうしてそう言うのですか。鬼に襲われたときの、あの接吻も杏寿郎様は後悔しているのですか?」
両手で杏寿郎の頬を挟み、鮮やかな色の双眸を見つめて月奈は問う。目を見開いた杏寿郎は「後悔だと?」と口を開いた。
煉「それは俺ではなく、月奈が…っ」
ガチっという音とともに唇にぴりっとした痛みが走った杏寿郎は一瞬眉をしかめた。至近距離にある月奈の顔がはっきり見えないが、痛みの原因はすぐに分かった。
煉「月奈、唇が切れてるぞ」
顔を真っ赤にして座り込んだ月奈は、すみませんと蚊の鳴くような声で謝って俯いてしまう。
「こんなことも満足に出来ないなんて…」
煉「そんな風に擦ると腫れるぞ。一体どうしたんだ」
着物の袖で唇の血を拭う月奈の手を掴むと「杏寿郎様が…」と小さな声が聞こえ、杏寿郎は聞き取れるように耳を近づける。
「杏寿郎様が初めてなのです、触れたいと思ったのは。だから…」
後悔なんて言わないで…と、か細く震える声で話した月奈は変わらず俯いたままだったので見えてはいないが、耳を近づけて聞いていた杏寿郎は目を大きく見開き顔は赤くなっていた。
煉「…よもや、月奈が俺を…?」
想像していなかった言葉が聞こえ、思ったことが口から滑り落ちた杏寿郎は慌てて口を押える。
「あ、余りにもおこがましい思いとは分かっていたのです!だから、その…お伝えするつもりはなかったのですが。あの男と一緒だと思って欲しくなくて…」
何を話しているのか自分でも分からない程に月奈は慌てふためいて次々と言葉を吐き出す。杏寿郎からの反応が返ってこないので余計に口が止まらない。沈黙が怖い。
「このような身の上なので、そもそも慕う方を作るつもりもなかったですし…えっと…その…だから…今の言葉は聞かなかったことに!」
月奈が勢いよく顔を上げると、強く抱きすくめられ体が強張る。
煉「なるほど。そうか…俺を想ってくれていたのか…」