第10章 潜入 *
内儀に呼ばれた月奈は見世の一室に向かう。
(何だろう?杏寿郎様も天元様もこんな風に呼び出すことはないし…)
襖の前で声をかけると、お入り、と言われ入室する。
一人の男が楼主と内儀の前に座っており、月奈からは顔が見えない。
内「悪いね藤葉。こちらの男性が藤葉とどうしても話をしたいと仰ってね」
「いえ、失礼致します」
内儀の横に、と言われ座ると男の顔が見えた。
(…どこかで見たことのある顔…誰だろう…)
男「…月奈お嬢さん、僕が分かりますか?」
(そうだ!生家に出入りしていた植木屋の人間だ!)
声を聞いて気付いた。
挨拶をされていたから声は覚えている。
「私は藤葉でございます。その名はここでは呼ばないでください」
内儀がチラリと月奈を見やる、普段とは違って随分と冷たくあしらっていたからだろう。楼主もキセルを咥えながら、じっと男を見ている。
売り物に傷をつけられては堪らないのだろう、上客を掴んでいる月奈は見世が守る対象だ。
男「どうして君がここにいるのかと思って…こんな苦界に来る前に僕を頼ってくれれば…」
内「苦界と言って貰っちゃ困るね。ここもれっきとした働く場所だからね、藤葉に不利な待遇はしていないよ。ねぇ楼主」
ニコニコと笑顔は崩さない楼主は、「そうだなぁ」と月奈を見て問いかける。
楼「藤葉、この男性をご存じなのかい?」
「…生家に出入りしていた植木屋です、知っているのはそれだけです」
ふむ、と楼主はキセルを一吸いすると若い衆に何かを伝えている。若い衆は頷いて部屋を出て行った。
男「月奈お嬢さん!それだけのはずがありません!僕は…!」
「その名を呼ばないでくださいと言っています!昔話をしに来たのですか?それならお帰りください、私は話すことなどありません」
男「金なら払います!それならば誰も文句はないでしょう?」
(なんという事を…!)
カッと気色ばんだ月奈は立ち上がって男に手を振り上げる。しかし、それが振り下ろされることはなかった。
煉「よもや、若い衆に呼ばれて来てみれば、何をしているんだ?」
楼「申し訳ない旦那。藤葉はもう席を外しても問題ありません。後はこちらで話をしますので、部屋へどうぞ」
そう告げると若い衆が杏寿郎に退室を促した。