第9章 穏やかな時間
高く空へ昇って行った鴉の姿を窓際に立って目で追っていた月奈は、声をかけられて視線を部屋へ戻すと両腕を広げている杏寿郎がいた。
「杏寿郎様…どうしました?」
首を傾げると、杏寿郎は「父上と千寿郎ばかり狡いからな!」と
微笑んだ。先ほどの抱き着いたことを言っているのだと気付いた月奈は、子供っぽい杏寿郎の言い分に頬が緩んだ。
「只今戻りました、杏寿郎様…」
ゆっくりと抱き着くと、優しく抱きしめられる。
柔らかい髪が頬に触れてくすぐったくなり、つい月奈はふふっと声を漏らす。
煉「よく無事に帰還したな。…辛かっただろう。自分の命を優先するという条件は月奈には酷だったな」
「…生き残った受験者がたったの二人、私と朝霧様だけでした。二十人近くの受験者が居たはずなのに…。生き残ってここに戻りたいという自分勝手な願いの為に、他の受験者を見捨てたこと、軽蔑しますか?」
月奈の肩が震えていることに気付いた杏寿郎は、抱きしめる腕に力を込める。
煉「それを軽蔑の対象にするなら、月奈がここに戻ってくることだけを願った俺も軽蔑の対象か?」
苦笑して杏寿郎が優しく囁くと、月奈は首を横に振り胸に顔をうずめて小さく「ありがとうございます」と呟いた。その声は震えていた。
煉「千寿郎、悪いが毛布を取ってくれないか」
廊下を通った足音の主に声をかけると、襖が少し開く。
顔を覗かせた千寿郎は、状況を察して静かに部屋に入ってくるなり杏寿郎の寝具から毛布を抜いて、壁に背中を預けて座っている杏寿郎に渡す。
千「…眠られたのですか?夕飯まではまだ時間がありますが、お目覚めになるまで待ちましょうか」
あぐらの上で横抱きにされている月奈の顔は杏寿郎の方を向いた状態で見えない。しかし兄が動かずに自分に毛布を頼んだことで、眠っていることが予想できた。
煉「あぁ、胡蝶の所でも仮眠を取っていたからじきに目覚めるとは思うが。起きない場合はそうしてやってくれ」
月奈に手早く毛布を巻いた杏寿郎に、千寿郎は掛け布団を差し出し「兄上も冷えてしまいますから」と前屈みになった杏寿郎の背にかける。
煉「ありがとう。よく気が付く弟だな。俺も少し休むことにしよう」
お休みなさいと頭を下げて、千寿郎は静かに部屋を後にした。