第9章 穏やかな時間
煉「ここで筆を使ってくれるか、この後まだ書き物が残っていてな。俺が知っている人物なら鴉に持たせる、言ってくれ」
「あ、お館様に御礼の文を、と思いまして。お借りしますね」
机を空けてくれた杏寿郎に御礼を述べて、月奈は筆を手に取った。月奈の隣で、残った書類に目を通し始めた杏寿郎は「なるほど」と返事して胸を撫で下ろした。
ーよもや、山から一緒に下りた少年宛てかと思ったが、杞憂だったな。…まさかあの容姿で少年とは思わなかった、少女と油断した俺を挑発してきたな。
チラリと視線を横にやると、文の内容に悩んでいるのか、眉根を寄せて紙とにらめっこする月奈の横顔。
藤襲山での七日間がどのようなものだったか、帰りの道中で月奈が語って聞かせてくれたので、どのように朝霧と呼ばれる少年と協力するようになったのかも分かっている。
ー月奈本人はあの少年の行動を、既に気にしていないようだが…あの行動は月奈への意思表示だったのだろう。手に唇を寄せる行動は友愛ではないと思う、と俺は考えるが…
「?…杏寿郎様?」
左手に何かが触れる感覚があった月奈は、それが杏寿郎の指であることに気付き声をかけたが、返答はなく杏寿郎はじっと左手を見たまま視線を動かさない。
文を書き終わっていた月奈は筆を置いて、杏寿郎の行動に首を傾げる。しばらくその指を見ていて思い出したのは、雅雄が左手に口づけたことだった。
(そういえば、西洋ではそういった文化もあると聞いたことがある。確か友愛や愛情を示す物だったかしら。杏寿郎様は気にされているのかしら、突然の接吻などまだ日本では珍しいものね…)
「杏寿郎様、鴉を飛ばして頂いてもよろしいでしょうか?」
杏寿郎の指にそっと触れて、覗き込むと途端に杏寿郎の目が月奈の顔を捉えた。月奈が少し苦笑すると、自分が何をしているのかハッキリと把握した杏寿郎は「すまん!」と慌てて手を離し立ち上がる。その顔は少し赤くなっていることを月奈は見てしまい、可愛い人だなぁと頬が緩んだ。
窓を開けて呼び込んだ鴉が杏寿郎の腕に止まる。その脚に、月奈の文を括りつけて「お館様の元に頼む」と呟くと、羽を広げ窓から外へ飛び立っていった。