第9章 風柱と那田蜘蛛山
もちろん杏寿郎もそれは百も承知だ。
更紗よりも遥かに長くここに住んでいたのだから。
「蕎麦屋がある方向ではなく、俺を見てくれないか?」
先ほどまでは家が多く立ち並ぶ場所であり、夕餉を作る時間帯という事で人の姿は見えなかったが、今は商店が多く並ぶ場所に近付いているので疎らにではあるが人がちらほらと見える。
そんな中での杏寿郎の更紗に向けられた言葉は通り過ぎていく人々の興味を誘い、生暖かい視線を2人に向けては去って行く。
「す、すみません。ですが、いきなりどうかされましたか?」
いつもと様子の違う杏寿郎はそれには答えず、河川敷を下り、傾きつつある太陽の光をキラキラと反射させる川の前でようやく足を止めた。
問いかけには答えてもらえなかったが、あまりの川の綺麗さにそんな事は更紗の頭から綺麗さっぱり飛び去っていく。
「わぁ!!綺麗です!ね、杏寿郎……君?」
橙色に染まる川から杏寿郎へ視線を移すと、今度は川の綺麗さが頭から飛び去る光景が更紗の目に映しだされた。
杏寿郎が更紗の前に跪いているのだ。
「通常は洋装の祝言の際に互いに交換するらしいが、それとは別に渡すのもいいかと思ってな」
そう言って左の袂に手を入れ、小さくも綺麗な1つの箱を取り出す。