第55章 いい子いい子
「雨降ってますよ」
息切れした声が聞こえた。
聞こえた声に私はギョッとした。
そして、肩で息をして私に傘を差し出す姿にも。
「傘、ないんですか、それなら、僕、コンビニで、買ってきます」
無一郎くんだった。
気づかなかった。色々考え込んでいたから。
…そういえば、よく遊びに来るって言ってたな。
「雨の中歩いちゃダメですよ。昔教えてくれたじゃないですか。」
私に傘を傾けたせいで、無一郎くんの傘がびっしょりと濡れていた。私はふるふると首を横に振った。
「師範?」
「………」
「…泣いてるの?」
無一郎くんが不安げに眉を下げる。
私は笑った。そうするしかなかったように思う。
「泣かないで」
笑っている私に無一郎くんがそう言った。
私はまた首を横に振った。
「もう、いいの」
驚くほど力のない声だった。
けれど、どこか爽やかで。
「ありがとうね」
その頭をそっと撫でた。
「…元気で……」
しかし、その瞬間何かに弾かれたように無一郎くんは私の手をそのまま掴み、ぐっと自分のように引き寄せた。
どうしてだろう。
振り払えるはずの手を、私はそのままにしてしまった。
「逃げましょう」
「……え?」
「お願い、僕と一緒に逃げて。師範。」
無一郎くんは真剣だった。
「逃げて、違う場所に行きましょう。」
無一郎くんは強く私の手を引いた。
その頃には、強く降っていた雨が止んでいた。