第69章 【外伝】紅茶と手紙
その美しい人は、出会ってから、ただの一度も声を荒げた事が無かった。春の日差しの様な穏やかな匂いと、月明かりの様な静かな微笑みが印象的だった。
だから、少女の様な、悲鳴の様な泣き声を聞いた時、愈史郎は、何か途轍も無く不吉な事が起こったのだと思った。
「珠世様! どうなさいましたか?! 珠世様!!」
彼は、泣き崩れた女性の周りに散らばっている荷物に目をやった。
紅茶だ。英国の物だけではない。今の世情、異国の茶葉を手に入れる事は、非常に難しい。余程の金持ちか、貿易商でも無い限り。
「珠世様!!」
「あの人は⋯⋯」
珠世は、抱き締めていた手紙を愈史郎に差し出した。手紙とも呼べぬ程、短い文が綴られていた。送り主は、かなり急いで書いたのだろう。やや字が乱れている。
──数百年分の誕生日を祝って。生まれて来てくださってありがとう。貴女と出会えた事は、とても幸運でした。心からの親愛を込めて。宇那手火憐。
「私は人を喰ったのに!! 大勢殺した!! 罪も無い人達を大勢!!」
珠世は髪を掻きむしりながら、叫んだ。
「こんな私を知って尚、人と呼んでくださる⋯⋯。私は⋯⋯私は⋯⋯」
思い出さない様に蓋をしていた。まだ、人だった頃の記憶。知性を取り戻してから、徐々に、そして、宇那手の血を飲んで鮮明に思い出した光景。
優しい両親は、何時もこう言っていた。
──自慢の娘だ。宝物だ。
その言葉の意味を、真に理解したのは、自ら子供を産んだ後だった。小さく、温かな手は、何より愛おしく、命を懸けて守りたかった。何十回、何千回⋯⋯いや、何万回でも、呼ばれたかった。
──お母さん。
(私はあの子に、どれ程の恐怖を与えてしまったのでしょう⋯⋯。家族に⋯⋯なんて酷い事を⋯⋯。酷いと分かっていながら、私は他の家族を⋯⋯人間を悪戯に傷付けて⋯⋯)
人として扱われる程、珠世は苦しみに喉が塞がる思いを味わった。誰より、何より、鬼である事を憎み続けたというのに。