第88章 夜には、私の名前を呼んで〜明智光秀〜
言葉は呪いだ。
良い言葉も悪い言葉も呪いになる。
そう教えてくれたのは、誰だっただろう?
秀吉さんは、私に呪いをかけた。
私を苦しめる優しい呪い。
それを消すには、もっと強い呪いが必要だ。
私は、また光秀さんを訪ねた。
「——また来たのか」
もう筆の動きは止めず、光秀さんは言う。
「来るのをわかっているなら、御殿に帰ればいいのに」
「御殿にいても、お前は訪ねて来るのだろう?」
私が頷くと、光秀さんは軽く笑った。
「……なら、ここにいた方が話が早いだろう?」
それは優しさなのか、手間を省きたいのかわからない。
でも、話は聞いてくれるみたいだ。
「光秀さん、私に愛してると言ってください」
勢いよく言うと、光秀さんの手が止まった。
「……言ってどうなる?」
「言ってくれたら、もう来ませんから」
「言わなかったら?」
「また来ます。何度でも」
光秀さんはため息をついた。
「お前は本当に…突拍子のないことばかり言う娘だな」
「私は、光秀さんのことをよく知っているつもりです。あなたは、息を吐くように嘘をつける…そうですよね?」
「あぁ、気持ちがない言葉こそ容易く言える」
「なら、言えますよね?愛のない結婚ができるあなたなら、愛のない言葉だって簡単に言えるはず。私の名前を呼んで、愛していると言って欲しいんです」
光秀さんは私をはっきりと見た。
「愛している」
なんでもないように言う。
さすが、光秀さん。
迷いがない。
「……もういいだろう?帰れ」
「名前を呼んでくださいと言ったはずです」
光秀さんが私を軽く睨む。
「…聞いてなかったのですか?」
「お前はいつからそんな悪い女になったのだ」
「私、いいこですよ?」
はっと光秀さんが笑う。
「どこがだ」
冬の雨のように冷たい笑顔。
そんなあなたが
こんなに恋しいなんて。
——私はその夜、
自分の足で選ばれない道を歩き始めた。