第9章 緩やかにいま墜ちてゆく(トラファルガー・ロー)
忘れられない女がいた。
甘酸っぱくはないそれは単に体の相性が抜群に良かったことが理由で、他に意味はない。
陸に上がれば夜道で声をかけてくる女を適当に選び生理的な欲求だけを作業のように満たす。
自分の手か女かの違いでしかないそれを覚えていることは初めてだった。
数年前、まだギリギリ10代の頃に上陸したそこそこ大きな島。栄えた場所で有名な酒場があると張り切るクルーと共にそこへ向かい、賑やかな店内の一角で酒を煽っていた時に近くのカウンターで独り居たのがクロエだった。
通りすぎる男全員の下衆な視線を浴びても全く気にする様子もなく淡々とグラスを煽るその女。すらりとした背にしなやかに伸びる長く細い足。
毛に濃く縁取られた漆黒の猫目が印象的な小さな頭。所詮言うところの美人だ。それもとびっきりの。
緩いウェーブのかかった色素の薄い髪を手櫛でまとめ、出された麺を啜っていた。
声を掛けた経緯などは忘れてしまったが、流れで宿へ連れ込み抱いたときの記憶が忘れられない。
あんなに"もっと欲しい"と思ったことはなかった。
翌日も予定が空いているという女の言葉に喜び抱き潰すかのように加減もままならない程がっついたのは単に若かったからだけか怪しい。
結局朝日を見ても止まらなかった行為は、日が完全に登った頃に女が気を飛ばしたのに釣られるように自分もぷっつりと記憶が途切れている。
別れはあっさりしたもので、一夜の相手というだけの間柄では当たり前。じゃ、と宿の前で背を向けた。
その時はいい女だったくらいにしか思ってなかった。
実感したのは違う女を相手していたとき。
行為の最中、節々でクロエとの行為に重なり、それと違うことに自身の勢いが弱まる。
頭でちらつく記憶。"クロエの方がいい"、"クロエならこんな反応するだろう"と考え始めたら、いくら妖艶な女でも役に立たなくなってしまった。
時には視界を反らし脳内でクロエの恥体を思い浮かべる始末だった。
それから数年、数ヵ月前のこと。
情報収集の最中クロエを見つけた。海軍だったこともそうだが、この若さで少将というのにも驚いた。
臨時召集で海軍に呼ばれ本部に行った時、遠目で見たクロエは記憶の中よりも格段に美しくなっていた。
"欲しい"
欲望のままを言うならこれだった。