第79章 命の呼吸
病院に戻った善逸。
手術室内の音を聞きながら、廊下の椅子で待つ。
苦しそうな光希の声がする。「せめてこの子だけでも」そんな呟きも聞こえる。
側にいて手を握ってやりたい。声をかけてやりたい。でもそれができない善逸は、ひたすら祈る。廊下はひんやりとしているのに、手は汗でびっしょりだ。
どれだけ時間が経っただろう。
手術室内の声に、善逸は弾かれたように顔をあげる。
「子宮口、開きました!胎児が下りてきます!」
「我妻さん!もうひと頑張りですよ!」
「母体血圧低下!心拍低下!出血かなり多いです!」
「我妻さん!しっかり!しっかりして!」
ここまで受け答えをしていた光希の声がなくなる。善逸はひやりとする。
―――おいっ!しっかりしろ!!
善逸は椅子から立ち上がって手術室に向けて思いを飛ばす。
「……っ、はぁ……はぁ……」
「我妻さん、次の痛みからいきみますよ!」
「…………は……い…」
微かに光希の声が聞こえた。
―――そうだ!偉いぞ、光希!頑張れ!頑張れ!!
「頑張りま…す……、ぐっ……」
「いきんで!しっかり」
「う……、ぎ…ぎぎ……、ぐぅっ……」
「上手ですよ!頑張って!!」
「胎児の頭、見えてきました!」
「はぁ…、はぁ……」
善逸は音で聞きながら、出産を見守る。
そして、「……ふぇっ、ぅんぎゃぁぁ!」と想像よりよほど力強い産声が聞こえた。
「う……、産まれた……」
善逸は力が抜けて、ぺたりと椅子に座り込む。
「産まれた……。俺たちの、子ども……」
思考が働かず呆然とする。
人生の幕開け。命の始まり。その最初の呼吸を、善逸の耳がしっかりと捉えた。
まさか自分の血を継ぐ者が、この世に誕生するなんて。この期に及んでそんなことをぼんやりと感じた。
しかし。
「我妻さん!我妻さん!!」
「母体血圧更に低下!危険です!!」
「我妻さん!聞こえてますか?我妻さん!!」
慌ただしくなる手術室。
善逸は顔を上げる。
「母体、意識消失!出血止まりません!」
「心拍低下!心肺蘇生の準備を!」
善逸の眼の前が暗くなる。
もう光希の声は聞こえない。
慌ただしく動き回る医師や看護師たちの音と、酸素を求めて泣く赤子の声だけが聞こえていた。