第16章 ただいま
あの子は、何処に行ったのだろう。
私を、増えていく水の中から助けてくれた、あの子。
手を引いてくれた時の温もり。
茶色い髪の毛、紅の瞳。
私の髪の色に似て
信長様の瞳の色に似て
また会える、って言ってた。
もしかしたら、
信長様との…
そんな事を考えながら、振り返らずに歩き続ける。
あの子と別れて、安土城に向かって歩く。
城門までこんなに遠かったかな?って思うくらい歩く。
足が痛い。
肩が熱い。
襲ってくる眠気と怠さを振り払うように言うのは、あの方の名前。
呟く度に、陽射しが強くなる。
ようやく城門まで着いた
…のに。
誰もいない。
門番も、馬も
城に入ってみても
誰もいない。
湯気立つ厨も。
鍋には温かな汁物、作業台には笊に盛られた山菜。
蒸気が沸きだつ釜戸。
誰かがいたような跡は確かにあるのに
誰もいない。
皆の部屋に向かって廊下を歩く。
こんなに… 長かった?
広間
武将達の部屋
煙りをあげたままの煙管
無造作に置かれた数札の書物
広げたままの巻物
墨の入ったままの硯と置かれた筆
白檀の焚かれた香枦
笊に置かれた薬草、すり鉢、薬匙
部屋主が其処に居たような跡。
でも、誰もいない。
背筋がぞわりとする。
また不安が襲う。
あの夕闇のように、押し寄せてくる水の様に。
天守!
また歩き出す。
続く階段。きっと、こんなに登らないはずなのに。
怠さと急に襲う眠気と
振り払うように言う名前。
「はぁ、はぁ、…着いた。」
ゆっくりと襖を開ける。
勢いよく風が吹き込む。
(居て欲しい)
そう思ったのに
飲みかけの果実酒とグラス
かけられた夜着
涙が 溢れる
(なんで、なんで? 置いていかないでよ!)
天守の板張りの欄干に あの人が見える
つまづくのを堪えながら
手を伸ばす。
右手が動かないから、精一杯、左手を。
あと、少し
…の所で、見えた姿は霧のように消えて
季節外れの桜の花びらが舞った。
また、涙が溢れた。
手足が冷たくなって、小刻みに震え出す。
力を込めて、板張りの桜の花びらを握りしめた。
ふわぁ
竜巻の様に舞い上がる花びらが
自分を包み込むようだった。
『戻ってこい!』
懐かしい声が聞こえた。