第63章 大正“悲劇”ー始ー
しばらく心が満たされる日々が続きました。
無一郎くんは毎日のように新しいことを覚え、また、それと同時に忘れることを繰り返しました。
「ええと…」
庭に立ってぼんやりと何かを見つめてぶつぶつ言っているので、私は声をかけました。
「どうしました?」
「師範、あの猫の名前、何でしたっけ」
そう聞かれて、私は彼と同じところに視線を向けました。
庭の木の上に三毛猫がいました。猫もじっと私達を見つめています。
「あの子はカヤですよ。」
「……あぁ、そんな名前だったような。」
そして無一郎くんは首をかしげ、不思議そうに言いました。
「いつもなら近寄ってくるのに、どうしてこっちに来ないのかな」
少し寂しそうな感情が読み取れました。この屋敷にはたまに猫がやってきて、人懐こい子達なので私達をみればすり寄ってくるほどなのですが。
木の上のカヤは一向に動きません。
「恐らく木の上に登って降りられなくなったのでしょう。カヤは運動が苦手ですから。」
少し怯えた気配がしました。動物の気配ははっきりとはわかりませんが、わずかに伝わってきます。
「…そうなんだ」
無一郎くんはしばらくぼおっとしたあと、スッとカヤに手を伸ばしました。
「………」
しかし、彼の身長では届きませんでした。三回ほど飛びましたが、それでもダメでした。
「……カヤは降りられないとどうなるんですか」
手をおろしてそう聞いてくるので、少し考えたあと答えました。
「あのままでは何もできないので、死んでしまうのでしょうね。」
しばらく無一郎くんの様子を見ていました。無一郎くんは、ぼおっと眺めていました。
「………僕…台もってきます…」
屋敷の奥に走っていって、私が背の低い彼のために用意した台を抱えて戻ってきました。