第55章 大正“浪漫”ー漆ー
「…申し訳ありませんが、私はこれ以上のことを知りません。」
氷雨くんはそう言った。
「……いえ…突然来たのに、ご丁寧にありがとうございました。」
「いいえ。」
変わらぬ笑顔で優しく微笑んだ。
「……ところで、産屋敷の坊やは息災ですか」
「坊や…お館様のことですか?病の進行は見られますが、まだご自身でお歩きになられます。」
私が言うと、氷雨くんはそうですかと短く言った。
「初めて会った時は本当に小さな童で、たいそう可愛かった。」
聞いてもいないのに氷雨くんが話し出す。
…彼の口からお館様のそんな話を聞くのは初めてでした。
「天晴も可愛がっていてね。もちろん、私も他の柱も…。幼いうちに当主としての地位を引き継がれたけれど。」
氷雨くんが窓のそとに目をやる。
「私は幼い童も救えない」
まるで遠い昔を覗くように窓の向こうに視線を投げている。
氷雨くんはお館様を嫌っていた。いつもいつも本部に反発していた。
「苦しい」
そして独り言のように呟いた。
私は何も言わなかった。
言わないままただ窓の外を彼のように見つめていた。
その苦しさが嫌と言うほど伝わってくる。あぁ、辛いな。皆色んなものを抱えて生きている。
その日の晩は、下宿屋の女主人の煮魚定食をいただいた。おいしかったけれど、少し骨をとるのが面倒だった。
氷雨くんと昔の話をした。
夜になると、私は下宿屋を発つことにした。
「これからどうするのですか?」
「…行きたいところがあるので、そちらへ。」
「そうですか。」
氷雨くんがにこりと笑う。
「道中、お気を付けて。」
「ありがとう。」
私もにこりと笑った。
もう二度と会うことはないだろう。
氷雨くんはそれをわかってか言葉数が少なかったので、私はすぐに彼に背を向けた。振り向かなかった。
「…さようなら」
後ろから声が聞こえた。
彼とは鬼殺隊がなければ再び出会うはずもなかった。
けれど、家族を知らなかった私にたくさんのものをくれた。
振り向きたかった。戻って、前みたいにたくさん話したかった遊んでほしかった。
でももうできない。
できないから、そのまま歩いた。
後ろの声に答えることもなく、私は歩いた。
いつまでも私の背中を見つめる気配がしていたけれど、歩き続けた。