第8章 前兆
あれから、馬車の中では穏やかに過ごした。
「俺、勝手に屋敷に上がっていいんさ?」
ディックはキョロキョロと、倹約家のすみれからは考えられない、絢爛豪華な調度品で埋め尽くされた屋敷を見回す。
いつも書庫室で(しかもディックは窓の外から)会っていたため、ちゃんと屋敷に上がってもらうのは初めてだった。
「お客様だもの。お祝いしようって、言ったじゃない!」
今夜は、叔父様と叔母様も外出中でいない。
へ、変な意味じゃないんだからね…ッ?!
「ディックは、ここで待っててね?」
「おー」
ディックを客間のテーブル席に座らせると、すみれはいそいそと部屋を出て行った。
*
すみれは屋敷地下の厨房へ行く。
何人かのコック達に会うも、手伝いは不要と断った。
大きな大きな冷蔵庫から、
2人用サイズの、小さな小さなフルーツケーキを取りだす。
(ディック、喜んでくれるかな…)
ケーキに何本か蝋燭を差し火をつけると、ポウ…と、周囲が暖かく包まれたような気持ちになった。
(…ううん、喜んでくれなくても。
私が、祝いたいだけだ。)
私と出逢ってくれて ありがとう
楽しい毎日を 恋する幸せも切なさも
たくさんの喜びを ありがとう
生まれてきてくれて ありがとうーーーーー
(……お誕生日おめでとう、ディック)
すみれはケーキを落とさぬよう、そっ…とお皿を両手で持ち、厨房を出て行った。