第31章 春風(高杉夢)
幸せなどとは縁のない生き方をしてきた。
――自分ひとりだけが幸せになれるはずもなかった。
「もうすぐ春だから、春の曲でも弾きましょう」
うっとりと笑みを浮かべた遊女が、軽やかな指先で琴をつま弾く。
胸に響く、荒野を吹きすさぶ風のような音色。
吹きつける春の嵐。
煙管を燻らせながらぼんやりと音に耳を傾けていた高杉は、音の向こうに暖かな春の日差しのように笑う少女の姿を思い出し、するりと立ち上がった。
「?」
突然のことに遊女は演奏を止めて高杉を見上げる。
何か不手際でもあったのか、と遊女が尋ねるよりも早く、黙って部屋を出て行った高杉は店主に余分な金を渡して店を後にした。
吹きすさぶ風はまだ冷たく、春の訪れなど随分先の事のように思える。
そう思って空を見上げると、白いものがちらほらと舞い落ちてきた。
「雪か」
やはりまだ春は遠いのだと息を吐くと、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえ、ゆっくりと振り返る。
「やっぱりこんな所にいた」
「”こんな所に”何しに来たんだ?」
「晋ちゃんを探しに来たんだよ。きっとまた、寒そうな格好してフラフラしてると思ったから」
言いながら、遼は自身の襟巻を外して高杉にかけた。
瞬間、甘い香りが高杉の鼻腔を擽る。
「もうすぐ春だな」
「はぁ?」
この寒いのに何を言い出すのかと頓狂な声を上げた遼に、高杉の口元が綻んだ。
「春雪だ」
「今日の雪は、まだまだ春雪には早いんじゃないの?
ほら、手だってこんなに冷たくなって」
高杉の手を取った遼は、呆れた顔をしながらも氷のように冷たくなっているその手を擦り合わせたり、息を吐きかけたりして何とか温めようと試みる。
熱心な遼の様子に、高杉の胸が締め付けられた。
目の前の少女を慈しみたい。
しかしそれをゆるすことは高杉には出来なかった。
師の仇とはいえ無数の命を容赦なく奪った自分に、誰かや何かを愛しみ、慈しみ、守り、その幸せを願う事など許されるはずがない。それに、志半ばで斃れてしまった者たちの無念を考えると、自分だけが平穏に生を全うするべきではないと思った。
「晋ちゃん」
不安げに見上げる遼の瞳に、僅かに決意が揺らぐ。
幸福とは縁遠くあらねば――
「まだ、寒い?」