第9章 人の気も知らないで
咲は、その日は煉獄家に泊まっていくことになった。
本当は一目杏寿郎の顔を見たらすぐに立とうと思っていたのだが、「出発は明日でも良いではないか」と懇願され、それを振り切って行くのはあまりにも可哀想な気がしたのだ。
引き止めたのは、槇寿郎である。
仮にこれをやったのが千寿郎だったとしたら、杏寿郎は「千寿郎、咲にも任務があるのだ。ワガママを言ってはいけない」と叱ったことだろう。
だが、静かに、そして威厳を持って、幼子のように必死で駄々をこねている実の父親を叱れるはずもなかった。
「咲、任務先で何か困ったことはないか?最近はどのような任務をしたのだ?」
「咲さん、この本とても面白いんです。後で一緒に読みませんか?」
咲、咲、と普段中々会えないものだから、槇寿郎と千寿郎はまるで母鳥にくっついて回る雛鳥のように、あれやこれやと咲に話しかけている。
杏寿郎ももちろん、それほど頻繁に会える訳ではないので咲と話したい。
だが、普段は年齢以上にしっかりとした振る舞いをしようと頑張っている弟の無邪気な笑顔や、やはり息子には照れくさくて向けられないのであろう表情を浮かべて珍しく饒舌になっている父の姿を見ていると、何だか温かい気持ちに包まれて、「まぁ、いいか」と思えてくるのだった。
咲が自分の妻になってくれて、この家にずっといてくれたらどれだけ幸せなことだろう。
父と弟のことはもちろん愛している。
だが、広いとはいえ屋敷の中に男ばかりが三人。
むさ苦しくないと言えば嘘になる。
たった一日咲がいるだけでこれだけ華やぐのだ。
ずっといてくれたら、どれだけ家の中が明るくなることだろう。
(そうだ…)
と、杏寿郎は思う。
咲がまだこの家で鍛錬をしていて、甘露寺が継子だった頃が、母が亡くなって以来一番我が家の中が明るくなった時だった。
あんな空気がまた訪れてくれたらと願わずにはいられない。
そんなことを思いながら、三人を横目に杏寿郎は庭で竹刀を振るのだった。