第9章 人の気も知らないで
千寿郎が咲の手を引いて玄関へと歩いていた時、引き戸がガラリと開いて槇寿郎が顔を出した。
「玄関先で騒がしい。二人共早く家に入りなさい」
「槇寿郎おじさま!ただいま戻りました」
「うむ」
槇寿郎はあえて重々しく頷いて見せてから、くるりと踵を返して家に入っていく。
その表情は、怒っている訳ではないのだが、どことなく引き締められていて、柱時代の姿を想像させるような凛々しさがあった。
だが、一方の槇寿郎の正直な心境としては、それこそ好々爺のような満面の笑みを浮かべて咲の頭を撫でてやりたい気持ちなのだった。
それを素直にやらないのは、長年、息子達に向けていた仏頂面が板につき過ぎて、今更そんな顔は恥ずかしくて晒せないからである。
それでも、久々に帰ってきた娘も同然の咲の顔を見ると、ついつい頬が緩んでしまうのだった。
だから、せめて千寿郎には見られまいとして、さっさと背を向けてしまう。
「あ、では僕はお茶の用意を……」
そう言って千寿郎が台所へ向かおうとすると、槇寿郎が背を向けたまま言う。
「よい。俺が淹れておいた」
「えっ、いつの間に……」
どうやら槇寿郎は、玄関先での話し声を素早く察知して咲の帰宅を知り、早々に茶の用意をしていたらしい。
「玄関先で騒がしい」とわざわざ言いに来たのは、茶の用意ができたから呼びに行ったに他ならない。
だがそんなことは、槇寿郎はおくびにも出さないのだった。