第80章 魔王と虎
永遠に続くかと思われた酷い悪阻だが、それでも徐々に落ち着いてきたようで、普通に生活できる日々が戻ってきていた。
家康曰く、どうやら安定期に入ったらしい。
『これから徐々に食欲も戻ってくると思うけど、あんまり食べ過ぎないようにね』と、早々に釘を刺されてしまったけれど……
(あんなに辛かったのが嘘みたい……子供ができるって、本当に不思議…)
まだ膨らみも感じないお腹にそっと手を置くと、優しく撫でてみる。
胎動が始まるのは、まだもう少し先のようだが、こうしてお腹に触れているだけでも赤子の存在を感じられて、満たされた気分になれた。
(ふふ…まだ眠ってるのかな…早く大きくなってね…)
「………朱里」
寝起きの少し掠れた声で名を呼ばれ、トクンっと鼓動が跳ねる。
ふわりと背後から回された逞しい腕に囚われたかと思うと、すぐ傍に愛しい人の息遣いを感じた。
「っ…んっ…信長さま…」
夜明けまでまだ間がある時刻、寝所の中には薄闇が広がっている。
今朝は少し早く目が覚めてしまったようだ。
背中から前に回された信長様の手は、私の手に重ね合わせるようにしてお腹の上に触れる。
無骨な大きな手が、壊れものに触れるように優しく撫でていく。
「今朝は随分と早起きだな……あまり眠れなかったか?」
首筋に顔を埋めながら、案じるように問いかけられる。
熱い吐息がかかって、ドキドキと胸の鼓動が速くなる。
「いえ…今朝は気分もスッキリしてて…昨日もよく眠れましたよ」
やっぱり信長様の傍は落ち着く。
悪阻が治まり始めてからは、また以前のように天主の寝所で信長様と休むようになっていた。
夜伽はまだ控えるように言われているけれど、ただ隣で寄り添って眠るだけでも、私の心は満たされていた。
「気分が良いなら、久しぶりに城下へ行ってみるか?部屋に籠りきりでは息が詰まるであろう?」
「わっ、いいんですか?嬉しいっ…あっ、でも…信長様、お忙しいのでは…」
「構わん。明日の祝賀の準備で、城内も忙しないからな。秀吉もそちらに手を取られておるから、俺が出かけても文句は言わんだろう」
「ふふ…信長様ったら…」