第72章 淡雪の恋
早いもので、新九郎くんが大坂城に滞在して、そろそろひと月になろうとしていた。
明日はいよいよ迎えがくる日
新九郎くんのための送別の宴ということで、今宵の夕餉は武将たちも交えて大広間で皆で食べることになった。
「このひと月、よく頑張ったな。戻ってからも鍛錬を怠らぬようにな」
「はいっ!信長様っ、ありがとうございますっ!」
「新九郎、またいつでも来いよ!稽古付けてやる」
「政宗様っ、ありがとうございます」
(皆、新九郎くんのこと、随分気に入ったみたい…このまま別れてしまうのが惜しいな)
このひと月で、新九郎くんはすっかり織田軍に馴染み、武将たちからも随分と可愛がられていた。
皆が別れを惜しんでいる…そして、結華も……
隣に座っている結華は、武将たちに囲まれて愉しそうに話をしている新九郎くんを見るばかりで、一向に箸が進まないようだ。
「……結華?」
「っ…母上っ…明日お別れしたら…もう、新九郎さまには会えないの?」
「ん…どうかな…」
またすぐ会えるよ、なんて無責任なことは言えなかった。
国元に帰る新九郎くんには、大切な家族や家臣達がいて、彼らを支えていかねばならない。
元服すれば、一人前の武将として、彌木家の嫡男として、やらねばならないことも多いだろう。
結華の気持ちは、恋と呼ぶにはあまりにも幼くて、ふわふわとした淡雪のようなもの。
離ればなれになれば、すぐに消えてしまうものかもしれない。
それでも、今、この時だけは、その小さな恋心を大事にしてやりたかった。
「結華姫っ!」
「っ…新九郎さまっ」
いつの間にか、新九郎くんは上座の私達のところに来ていて、真っ直ぐに結華を見つめている。
「仲良くしてくれてありがとう…また、文を書くよ。だから……姫も返事をくれますか?」
「は、はいっ!必ず…必ず書きますっ!」
幼い二人の小さな約束を、広間にいた大人たちは皆、微笑ましく見守っている。
(信長様は…機嫌悪くなさってないかな…)
心配でそっと様子を窺うと、信長様は、少し諦めたような表情ではあるけれど、口元に柔らかな笑みを浮かべて二人を見ておられた。
「信長様…」
「…ふっ…俺の思い通りにならぬものがこの世にあったとはな…」
小さな二人を見守る深紅の瞳はこの上なく優しくて、穏やかな色を湛えていたのだった。