第72章 淡雪の恋
堺での商談から戻った信長は、再び政務や視察に追われる日々を送っていた。
大きな戦はなくとも、小さな一揆や大名同士の争い事などの紛争は完全になくなることはなく、それらは、各地に間諜を放っている光秀から逐一報告が上がるのだった。
「失礼致します…御館様」
その日の夜、湯浴みの後、天主で書簡を読んでいた信長の元へ、抑えた静かな声が掛かる。
「…光秀か、入れ」
「はっ…」
衣擦れの音さえさせずに入ってくる光秀の、相変わらず飄々とした様子に、信長はその表情を秘かに窺う。
(相変わらず読めん男だ)
「このような時分に、急ぎの用か?何ぞ『知らせ』があったか?」
「…はっ…西国で小規模な一揆の兆しあり、との知らせがございました。
一向宗による一揆ではないようですが……本能寺での襲撃のあと、元就の生死は未だはっきりしておりません。
今回の一揆へ毛利の残党が関与している可能性も否定できず…引き続き情報を集めます」
「ふん、元就か…殺しても死なぬ男よな。
一揆の動向に注意しておけ。毛利と繋がり、大きな動きになるようであれば……すぐに、潰せ」
「っ…はっ!」
その後も、各地の様子などについて、二、三、報告を受けたが、これらは、さほど急ぎのものではないようだ。
信長は、一つ一つに指示を出していく。
報告が終わりひと息吐くと、光秀は徐ろに話題を変える、
「…それと…今宵は、御館様にお届け物をお持ち致しました。
先だっての堺での商談の際、南蛮商人から御館様にと、『特別な献上品』を預かっております。
……どうぞ、お納め下さいませ」
恭しく首を垂れた光秀は、小さな箱のようなものを差し出した。
「特別な献上品だと?そのようなものは聞いていなかったが…?」
訝しげな表情を浮かべて光秀を見ながら、信長は箱を受け取る。
「……些か特殊なものゆえ、人前でお渡しするのを憚ったようでして…会談の後で私が預かりました」
随分と勿体ぶるのだな、と意味深な笑みを浮かべる光秀の態度を益々訝しく思いながらも、信長は箱の蓋に手を掛けて………
そっと蓋を開けた。