第60章 京へ
大坂への城移りが落ち着いて、信長様は朝廷への報告の為に、再び京へと上られることになった。
「…まったく、居城を移したぐらいでいちいち上洛せねばならんとは…形式にばかり拘りおって……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、広げた紙の上に筆を滑らかに走らせて、さらさらと文を認めていく。
朝廷への報告の文
関白 近衛前久殿への挨拶の文
京の名高い寺社仏閣への文 などなど
今日だけで一体何通の文を書かねばならぬのか、と書き上げたばかりの文の墨を乾かしながら、信長は人知れず溜め息を吐く。
本当は祐筆に任せてもよかったのだが、いざ自分で書き始めてみると、何となく任せ難くなり、今に至る。
(文を書くのは嫌いではないが、このような形式的なものは、面白くも何ともないな)
「信長様、少し休憩なさいませんか?」
もやもやと晴れぬ心持ちを穏やかに包み込むような優しい声に、文を書く為に俯いていた顔を上げる。
廊下に面して開け放してあった襖の端からちょこんと顔を覗かせる朱里の姿に、自然と口元が緩む自分がいた。
「朱里っ…」
ふわりと微笑みながら部屋の中へと入ってくる朱里は、皿を乗せた盆を手に持っていて……朱里が入ってくると同時に、室内に甘く芳しい香りが広がる。
怪訝そうな顔をする俺を見た朱里は、ニコッと笑うと、
「ふふっ…甘味を作ったんです。『パン・デ・ロー』ですよ、信長様っ。今日はちょっと上手くできました!」
見て見て、と言わんばかりに自慢気に皿の上の焼き菓子を見せてくる無邪気な姿に、心を鷲掴みにされたような胸のときめきを感じてしまう。
(何だ、この愛らしい顔はっ……まったく…可愛すぎるだろう……)
今すぐ抱き締めて、押し倒してしまいたい男の欲まみれの衝動に駆られるが、甘く蕩けるような甘味の香りにもまた惹きつけられてしまい………
「『パン・デ・ロー』か…好い香りがするな。甘くて美味そうな……朱里、早く食わせろ」
「ふふっ…お待ち下さい…今、お茶を点てますから」
落ち着いた所作で茶を点てる朱里の手元を、見るともなしに見ていると、シュッシュッという茶筅が軽快に動く音と共に抹茶の芳醇な香りが漂ってくる。
茶の香りは、いつも心を穏やかにしてくれる。
一服の茶が点てられるまでの所作もまた、心を落ち着かせてくれるものだった。