第56章 秀吉の縁談
「……貴様は本当に不器用な男よな」
呆れたように言われた言葉に、伏せていた顔を上げると、口元に穏やかな笑みを浮かべて困ったように自分を見る、信長の姿があった。
「っ…御館様っ…」
「ふっ…この縁談、断るか…朱里がやたらと乗り気だったのだが……まぁ、仕方あるまい」
「すみません…桜姫には俺からちゃんと話をします」
「ん……」
それきり二人とも何と言っていいか分からず、黙り込んでしまう。
長い沈黙の後、退室の挨拶をする秀吉に、信長が何気無い調子で声を掛ける。
「……秀吉…」
「…はっ」
「…俺は…市を小谷から救い出したのが、他の誰でもなく貴様でよかったと思ってる。貴様にしか任せられなかった」
「っ…御館様…」
満たされぬ想いを無理矢理抑えるために固く凝り固まっていた自身の胸の内が、信長の言葉とその慈愛に満ちた暖かい視線によって溶かされて、ふわふわと軽くなっていくような気がした。
憧れにも似たこの想いが貴女に受け入れられることは、きっとない。
貴女のその美しい紅色の瞳が、俺のことを見てくれなくても構わない。
ただ、この穏やかな世界で、同じ空の下に、貴女が生きていてくれる……それだけでいい。
お市様
貴女がこの先、心安らかに平穏に暮らしていけるように……
俺は御館様のお傍で、貴女の生きるこの世界を守っていきたいんだ。