第53章 業炎
『記憶が過去に戻ってる』
秀吉さんに告げられた言葉の意味がすぐには理解できず、呆けた顔で見つめる私を、秀吉さんが心配そうに覗き込む。
「…朱里、聞いてるか?」
「…っ…秀吉さんっ、どういうことっ?なんでっ?」
「落ち着けっ、朱里…ちゃんと説明するから…」
混乱する私を押さえて秀吉さんは、これまでの経緯を話してくれた。
戦が終わり安土へ帰還する途上、敵に急襲されたこと。
戦いの最中、信長様が落馬され、一時意識を失われたこと。
「っ…信長様が落馬されるなんて…」
「子供を…庇われたんだ。たまたま居合わせていた領民の子を敵の矢面から庇われて…それで…っ…」
「その子は…?」
「無事だ。御館様が落ちる瞬間まで懐に抱き竦めて守られたから、怪我ひとつなかった。
御館様の意識はすぐに戻ったんだが…落馬の際に頭を打たれたらしくて、意識が戻った直後から記憶が混乱されているようだった。
戦や政のことに関しての記憶は変わりなかったから、安土への帰還の采配も問題なく執られたんだが……
どうやら………御館様の記憶は、本願寺との和睦が成立する前ぐらいまで戻ってるようなんだ」
「っ…それって…私と出逢う前までの記憶しかない、ってこと?」
「くっ…すまない…朱里のことは、顔を見ればお分かりになるかと思ったんだが…あんなことになるなら、先に知らせておけばよかったな…申し訳ない」
沈痛な面持ちで頭を下げる秀吉さん。
「っ…頭上げて、秀吉さんっ。私は大丈夫だから」
「医者の見立てでは、記憶の欠落は一時的なもので時間が経てば戻るのか、……それとも一生戻らないのか…判断がつかないらしい」
「そんな……」
「軍議の後、御館様には、朱里と結華のことを話しておいた。
一応、理解はされているようなご様子だったが……何せ、結華は御館様に面差しがそっくりだからな、傍目にも御館様の御子だとすぐ分かる。記憶がなくても…な」
「ありがとう、秀吉さん」
予想外の話に心の整理が追いつかず、これからどうすればいいのか、全く考えられなかった。
この安土の地で信長様と過ごした思い出
幸せな日々 満ち足りた時間
愛し愛された記憶
それら全てが信長様の中から消えてしまったなんて……