第115章 紀州動乱
此度、信長は主力のほとんどを率いて出陣し、大坂城の守りには武将を残さなかった。通常、これまでの出陣時には留守居役として信頼のおける武将を残しており、此度の戦がいかに大戦とはいえ、これは後陣の守りが明らかに手薄であるように思われる。
大坂は織田軍の拠点であるが、信長はこの城を天下泰平の世の象徴として築城したため、元々この城は戦には不向きであり、敵に攻められて長期に籠城できるような作りにはなっていない。
無論、武器弾薬や兵糧など戦に必要な物資には充分な備えがあり、籠城が出来ないわけではないが、いわゆる攻めづらい城ではないのである。
出陣する信長を何度も見送ってきた朱里も、いつもは誰かしら武将達が残ってくれていたのが此度は全員出陣すると聞いて意外に思ったものだった。
それほどに大きな戦になるのかと信長の身を案じつつも、自分自身も常よりも心細さを感じてしまう。
(信長様を心配させてはいけないから口には出せないけど、やっぱりちょっと不安だな。大坂城が攻められることはないと思うけど、それでも万が一の時は私がしっかりしなくちゃ…)
大坂に城移りして間もない頃、信長が生死不明となり城主不在の城を敵方に攻められて初めて籠城した記憶が甦る。あの時は家康や三成が指揮を取ってくれ、信長の劇的な復活もあって事なきを得たが、此度もし戦になったらそうはいかないだろうと思うと、城主の妻として城内の者達や城下に住まう人々を守る責任を改めて痛感するのだった。
「朱里」
「あっ、秀吉さん」
軍勢を見送るため子供達とともに城門前に出ていると、秀吉さんに呼びかけられた。
「見送り、ありがとうな」
秀吉はいつものような太陽のように眩しい笑顔ではなく、どことなくぎこちなさを感じる笑みを浮かべる。
「秀吉さん?どうかした?」
「ん?あ、ああ、久しぶりの大きな戦に緊張してるのかもな…柄にもねぇな」
心配そうに秀吉の表情を窺う朱里に曖昧に微笑んで見せながらも、秀吉の心は揺れていた。
(城をわざと手薄にするのが今回の策の一つだ、なんて言えねぇ。言えば朱里が不安がる。だが、伝えておいた方が備えられることもあるかもしれないし、気持ちの面でも違うかもしれない…っ、いや、これは御館様が決められたことだ。勝手な真似はできない)
隠し事を抱えた後ろめたい気持ちが散らつき、秀吉の表情を暗くしていたのだ。