第114章 夏のひととき
ジージリジリ ジー
(ん…何、セミの声…随分大きい…)
「起きよ、朱里」
(ん…気持ちいいな)
頬に触れる大きな手の感触が心地良くて、夢現のまま、猫のように擦り寄っていた。
「……寝惚けておるのか?」(寝惚けた顔も愛らしいな)
「はは、まだねんね?おきてー」
ゆさゆさと身体を揺り起こされる感触を感じるが、眠気が勝った頭はぼんやりとして思考が定まらない。
「うぅ…まだ寝かせて…」
「はは、せみさん、おきた。ははもおきて!」
「え…セミ…あっ…」
(そうだった…朝になったら外に放すって…)
昨夜の記憶が朧げながらも蘇ってきて、気怠い身体を何とか持ち上げる。明け方近くまで信長様に愛された身体はいまだに熱っぽく、思うように動けなかったが、吉法師に手を引かれて寝所を出ると、セミは昨夜と同じ所に留まって鳴いていた。
「夜明けとともに鳴き始めた。放してやる頃合いだな」
「せみさん、おそとへだしてあげるの。きち、さよなら…する」
幼くともさよならの意味は分かっているのだろうか、吉法師は淋しそうな顔でセミの背中を見つめる。
近付くと気配を感じたのか鳴き声がぴたりと止む。信長様がそっと掴むとバタバタと羽を震わせて暴れ出したが、そのまま三人で廻縁へと出た。
空はもう明るかったが、まだ早い時間のせいか、空気が澄んで涼しさを感じるぐらいだった。
「放すぞ」
高らかに腕を上げた信長様は真剣な表情で見つめる吉法師の目の前でセミを空へと放つ。
「あっ…!」
朝焼けに染まる空へセミは羽音を響かせて飛んでいった。
「よかった…無事に飛べましたね」
「せみさん、おそらとんでった…さよなら」
吉法師は名残惜しそうにいつまでもセミが飛んでいった空を見つめていたが、信長に促されて部屋へ戻ると、残された抜け殻を壊さぬようにそっと手に取り、大事そうに両手で包み込んだ。
「きち、これ、くしゃ、ってしない」
小さな命が懸命に生きる様を見たことで、幼な子の心にも何か響くものがあったのかもしれない。
夏の夜のひとときは吉法師にとっても思い出深きものとなったようだ。
空蝉の世の儚さと、儚き世を生きる全てのものの命の尊さを感じながら、今日もまた暑い夏の一日が始まろうとしていた。