第113章 閑話〜信長と家康のとある一日
ニヤリと楽しげに口元を緩める信長はどこか遠い目をして家康を見つめていた。
家康が一時、織田家の人質だった頃、信長は何かにつけて幼い家康を構っていた。相撲を取ったり、川で水練をしたり、時には武芸の稽古を付けたりと、些か荒っぽい扱いをしつつも信長なりに目をかけていたのだ。
家康が人質交換で織田から今川に移った後も、密かに文を遣って気遣っていたのだが……
「覚えてますよ。貰った文は他愛ない内容でしたけど、貴方と過ごした尾張での日々は今川に行ってからも忘れたことはなかったですし…」
「何だ、今日はいやに素直だな、家康。珍しいこともあるものだ」
「別に…深い意味はないですよ」
日頃はあまり胸の内を明かさない無愛想で天邪鬼な家康が素直に昔を懐かしむようなことを言うのが意外で、信長は思わず口元が緩むのを抑えられずにいた。
「ふっ…まぁ、よい。それより何か用があったのではないのか?」
「あ、はい…あっ、その…」
信長が傍目にも楽しそうなのが分かり、急に何となく落ち着かなくなった家康は、当の信長が昔話を早々に切り上げてくれたらしいことに内心ホッとしながらも、覚束ない手付きで懐から紙包みを取り出して信長へと差し出した。
「……?何だ、これは?」
「……俺が調合した胃の腑の調子を整える薬です。信長様、今年も誕生日祝いの宴でかなり飲まれるでしょう?酒に強いのは知ってますけど、宴が始まる前に念のためこの薬を飲んでおくことをお勧めします」
信長が紙包みを開くと、中には黒々とした小さな丸薬が三粒入っていた。そっと鼻を近付けると薬草特有の青臭く苦々しげな匂いがフッと香り、信長は思わず顔を顰める。
「………これは苦いのか?」
「良薬口に苦し、です。多少の苦さは我慢して下さい」
「多少…のぅ。貴様の作る薬の苦さと言ったら…文字どおり口にするのも憚られる。それこそ天下一ではないか?」
「信長様っ!」
「くくっ…冗談だ。そのような不満げな顔をするな。苦さは半端ないが効果の程が確かなのも知っておる。貴様の好意はありがたく受け取っておこう。当日が楽しみだな」
「はい」
丸薬を包んだ紙包みを大事そうに仕舞う信長を見ながら、家康は穏やかな心持ちになっていた。
昔も今も変わらぬこのお人の生まれ日を祝う日はもう間もなく。
今年もまた賑やかな一日になるだろうと思いながら……