第113章 閑話〜信長と家康のとある一日
麗らかな春の陽が射す皐月のある日
「失礼します、信長様」
「…家康か。入れ」
文机に向かい、手元の書簡に筆を入れていた信長は視線は下へ向けたままで入室の許可を告げた。
入って来た家康は文机の傍らに山と積まれた書簡の束をチラリと見てから、幾分気まずそうな表情を浮かべる。
「…忙しそうですね。出直しましょうか?」
「いや、構わん。暫し待て、すぐ終わる」
言いながらも澱みなく筆を動かし続ける信長の前に、家康は遠慮がちに腰を下ろす。
そのまま見るともなしに信長の手元に目をやれば、武骨な男のものとは思えぬような流麗な文字が目に入る。
(相変わらず綺麗な字だな。昔からこれだけは意外だった)
『尾張の大うつけ』と呼ばれ、生まれも身分も様々な悪童達を従えて国中を駆け回っていた男は、幼い頃から傍に仕えた傅役の影響なのか意外にも教養深く、手習いなどまともにしているところを見たことがないにも関わらず美しい手跡の持ち主だったのだ。
字には書く人の本質が自ずと現れるものだという言葉を思い出しながら、家康は信長が書く繊細で美しい文字を無意識に目で追っていた。
「待たせたな」
筆を置くコトリという小さな音を聞いてハッとして顔を上げると、こちらを見つめる信長と目が合った。
思慮深さを秘めた深紅の瞳が、家康の心の奥を窺うように揺らぎなく真っ直ぐに向けられていた。
「貴様が来るなど珍しいな。何事かあったか?」
「いえ…あの、それってもしかして全部、誕生日の祝文ですか?」
「ん?ああ、このところ連日ひっきりなしに届くのでな。返事が追い付かん」
この月の十二日は信長の誕生日であり、月初めから連日、織田家の重臣達や傘下の大名家、京の公家衆などから数え切れぬほどの祝いの品や祝文が贈られてきていたのだった。
「右筆に任せず、全てご自分で書いておられるんですか?それはまた…」
凡そが形式的な礼状とはいえ、全て自分で書くとなると随分と骨が折れることだろう。日々の政務に忙しく、極端に無駄を嫌う信長がそのような手間を厭わないことが家康には意外に思えたのだ。
「信長様がそんなに筆まめだとは知りませんでした。政宗さんじゃあるまいし…」
「意外か?文を書くのは嫌いではない、昔からな…ああ、幼き貴様にもよく書いてやったな。覚えておるか、家康?」