第111章 閑話〜信長と光秀のとある一日
月の光が淡く射し込む春の宵
「……御館様」
花鳥風月が美しく描かれた絢爛豪華な襖の前に音もなく立った男は、闇に溶け込むような静かな声で呼びかけた。
「来たか、光秀。入れ」
入室を許可する主の声に、光秀は僅かに開けた襖の隙間にそっと身を滑り込ませる。気配を消すことに長けた男の洗練された身のこなしは衣擦れの音さえさせなかった。
行燈の淡い灯りに豪華な調度類が浮かび上がる部屋に入ると、上座でゆったりと脇息に凭れる主の姿を確認する。
廻縁に面した障子が開け放たれており、空に浮かぶ春の月が見えていた。
「御館様、私からの誕生祝いの品です。どうぞお納め下さい」
光秀は携えていた酒瓶を恭しく信長に差し出す。
「ほう、今年は異国の酒か」
「ええ、近頃は堺へ訪れる南蛮船の数も増えてきて、様々な種類の珍しい酒が取り寄せられるようになりました。これも偏(ひとえ)に御館様の御功績の賜物かと」
「貴様は相変わらずだな。持って回ったようなその物言いも、毎年祝いの品を献上しに来る律儀な性質も」
「…………」
光秀は金色の眸を微かに眇めると、薄く微笑を浮かべたまま黙って信長の持つグラスに酒を注ぐ。
とろりとした琥珀色の酒が玻璃のグラスを満たす様に、信長は口元をゆるりと緩めた。
異国の酒をグラスと呼ばれる玻璃の器で飲むのが信長の気に入りであった。
「貴様はそうして何事も煙に巻き、敵味方問わず己の手の内を明かそうとはせん。それ故に貴様を油断のならぬ二心ある者と見る向きは今でも一部の家臣達の間で根強いが…貴様はこの事態をどう思っておる?光秀」
「これは意なことを申される。どう思おうも何も…今更そのようなことは些細なことかと。私は天下人たる織田信長公の左腕。今も昔も何一つ変わりませぬ。この命尽きるまで御館様ただ一筋にお仕え致す所存です」
口元にゆったりと余裕の笑みを浮かべてから恭しく首を垂れる光秀を見て、信長は至極愉快そうな笑い声を上げる。
「はっ…その台詞、秀吉にも聞かせてやったらどうだ?」
「お戯れを。あの男の前では冗談でも口にしません。いつもの如く胡散臭いと一蹴されるならまだ良いが、『お前もついに心を入れ替えたのか』と歓喜に咽び泣かれでもしたら面倒でしょう?」
「……違いないな」