第110章 魔王の霍乱
「ん?もしや、夕餉もまだなのか?ならば今からでも厨番に何か作らせて…」
言うや否や、クルリと背を向けて出て行きそうになる信長様を慌てて引き止める。
「や、ちょっ…ま、待って、信長様っ!食べました、食べましたよ、夕餉。しっかり、がっつり頂きました!ご心配には及びません!」
「っ…くくっ…貴様、がっつり、などと…」
「あっ……」
言い過ぎたと思い、恥ずかしさで顔に熱が集まるのを感じながら信長様を見ると、可笑しそうに声を上げて笑っておられた。
「も、もぅ!笑わないで下さい、信長様」
「笑わせる貴様が悪い。それよりも、もう休むのであろう?ならばこのまま天主へ行くぞ」
楽しげに顔を綻ばせながら、信長は当然のように朱里の手首を掴み、自分の傍へとぐっと引き寄せた。
「あっ…つっ、うっ…」
「……朱里?」
思いがけず、痛そうに顔を顰める朱里を見て、信長は怪訝そうに眉を寄せる。自分ではそう強く掴んだつもりはなかったのだが、朱里の反応が予想外だった。
「すまん、痛かったか?」
慌てて手を離し、朱里の様子を窺う。
見たところ特に変わったところもなく、どの辺りがどう痛いのかも信長にはよく分からなかったが、朱里は手首を摩りながら言う。
「あ…大丈夫です、信長様のせいでは…ちょっと手が痺れているだけなので…心配ないですよ」
「痺れているだと?それは大丈夫なわけなかろう。見せてみろ…っ、少し熱いな。痛みは酷いのか?」
壊れ物を扱うようにそおっと手首を持ち上げた信長は、少し熱を帯びたそこを優しく撫で摩る。
「っ、んっ…本当に大したことではないんですよ。少し疲れているだけで…」
これ以上心配をかけたくなくて手を引っ込めようとするが、信長は離してくれない。両の手で大事そうに包み込んでくれている。
「阿呆が…無理をするなと言っただろうが…」
「ごめんなさい。でも、今日中に少しでも多く薬を作りたくて…」
夜遅くまで休みなく薬研を引き続けた手は疲労が溜まり、痺れて感覚が鈍くなるほどだった。
「放っておくと貴様はすぐ無理をする。これだから目が離せん」
呆れたように溜め息を吐きながらも、信長は朱里の手首を優しく何度も摩ってくれる。
「んっ…大丈夫ですよ。家康に塗り薬を貰いましたし、一晩休めば治ります。だから…そんなに心配なさらないで」