第95章 雪の日に
何となくしんみりしてしまい顔を背けた拍子に、額の上の手拭いが滑り落ちる。
「あっ……」
拾おうと秀吉が手を伸ばすより先に、信長はそれをさっと拾い上げて水の入った盥に放り込むと、固く絞り直してから秀吉の額の上に乗せ直したのだった。
「っ…ゴホッ…ゴホッ…ぅ…お、御館様、そんな勿体ない…あ、あの、うつるといけませんから離れて下さい…」
「阿呆が…この俺に、貴様の風邪ごとき、うつるはずがなかろう?俺を誰だと思っている?いいから大人しく寝ていろ」
「お、御館様っ…」
起き上がろうとする秀吉を押し留め、荒っぽく布団をかけてやると信長はプイッと視線を逸らしながら言う。
「俺の傍を一刻たりとも離れることは許さん。早く治して登城せねば、傍を離れていた分だけ金平糖を追加してもらうぞ」
「っ…それは…」
また無茶なことを言われるなと悩ましく思いながらも、秀吉の心には、ふわふわとした柔らかくて暖かなものが広がっていく。
信長に出逢って、この世に自らの存在する意味、生きる意味を与えられた。
生まれや身分に左右される己の生き方に嫌気が差しながら、自分ではどうすることもできない不条理になす術もなく流されていた秀吉に、信長は、この世は変えられるのだ、自らの手で変えるべきものだと教えてくれた。
信長に出逢ったあの日から、秀吉の目に映るこの世界は大きく変わった。
本気で望めば、生き方は変えられる…そう思えるようになった。
『生まれや身分に左右されず、誰もが己の思うままに生きられる、戦のない豊かな世の中を作る』
信長の見る大きな夢を、ずっと隣で共に見ていきたい…あの日からそれが秀吉の切なる願いになった。
(御館様の進まれる道こそが、俺が行くべき道だ。たとえそれがどのような修羅の道であったとしても…俺は決してこの御方の傍を離れはしない)
「御館様…来年も再来年も、そのまた先までも…ずっとお傍でお仕え致します」
「ふっ…当たり前だ。俺の右腕が貴様以外に務まるわけがなかろう。離れたいと言っても許さん。まだまだ長い道行きだ。覚悟しておくがよい」
ふてぶてしくも堂々たる物言いで宣言し、不敵に笑う信長を見て、心の内が温かくなった秀吉は、最愛の主君にゆったりと微笑みを返したのだった。