第90章 月に揺らぐ
転がるように廊下を走って行く千代を一瞥して、信長はすぐに朱里の傍へと戻る。
朱里は、不安を隠せない様子で、呆然と褥の上に座ったままだった。
「横になれ、朱里。あまり動かぬ方がよい。痛くはないのか?」
「は、はい。信長様、御子は…御子は大丈夫でしょうか…」
「っ……」
(大丈夫だと言ってやりたいが…これがどういう状況なのか分からん)
不安げに揺れる瞳に、グッと胸が締め付けられるような気持ちになりながら、腹の上に置かれた朱里の手を上から力強く包み込む。
朱里も、腹の子も、俺がこの手で守ってやる…そう精一杯の想いを込めて。
どれぐらいの時間が経ったのか、廊下をバタバタと忙しなく駆けてくる足音が聞こえ…襖が勢いよく開かれる。
「朱里っ…」
「家康っ、遅いぞ」
「無茶言わないで下さい、信長様。これでも色々準備して御殿から駆けて来たんですから。産婆もじきに来ます。朱里、痛みは?どれぐらいの間隔?」
「家康っ…それが…痛みはまだあんまり……でも、お水が漏れてて…」
「えぇっ…ちょっ、ちょっと見せて。あぁ、信長様は部屋の外へ出てて下さい」
「何だと?」
「早くして下さいっ!」
「くっ…………」
家康の迫力に押され、戻ってきた千代にも促されて、信長は渋々といった様子で部屋の外へと出た。
(くっ…確かに、俺には家康ほどの医学の知識はないが…傍についていてやることも叶わんのか…朱里があれほどに不安に駆られているというのに……)
今更ながらに男の無力を痛感させられる。
愛しい女の不安に揺れる心を、慰めてやることすら出来ぬとは情けない。
「朱里っ……」
どうにもならない己の感情と戦いながら、信長は、固く閉じられた襖を穴が開きそうなぐらいきつく睨みつけた。