第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
(ん……暗いな、まだ夜か…)
深夜、寝苦しさから意識が浮上した信長は、行燈の灯りも消えた暗い寝所の中で視線を廻らす。
残暑厳しい折、夜もいまだ蒸し暑い日が続き、夜明け前に目が覚めてしまうことも多かったが、今宵はまだ真夜中で、眠りについてからさほどの時が経っていないようだった。
隣に眠る朱里の様子を見てみれば、すぅすぅと軽い寝息を立てて眠っている。
その愛らしい寝顔にふわりと心の内が温かくなるのを感じながら、寝台の上に気怠い身を起こす。
(よく眠っているようだが、やはり暑いようだな)
寝る前には身体を包んでいた掛布が、朱里の足元でくしゃりとなっている。暑くて、寝ている間に剥いでしまったのだろう。
夜着の裾も大きく乱れて、色白なふくらはぎが露わになってしまっていた。
「っ………」
愛しい妻の艶めかしい肌を目の当たりにし、鼓動が煩く騒ぐ。
身体の熱が、かあっと上がったような気がして、一気に息苦しさを感じた。
(くっ…我ながら意識し過ぎだな。これしきのことで動揺するなど…)
急速に喉の渇きを覚えた信長は、枕元の水差しに手を伸ばし、器に注ぐこともせずに、勢いよく直接、口に含む。
そのままゴクゴクッと喉を鳴らして荒々しく飲み干すと、口元に溢れた水滴を手の甲でぐいっと拭う。
「ふぅ……」
生温い白湯が、喉を通り、胃の腑へと降りていく感覚は爽快とは言えないが、喉の渇きは満たされる。
だが…この腹の底に燻る情欲、身体の渇きはどうしたら満たされるのだろう。
朱里に触れたい、思うままに抱きたい…みっともないぐらいに剥き出しの欲望が抑えきれずに溢れ出る。
穏やかに眠る朱里の方を見遣れば、赤子を宿した腹は随分と大きくなり、庇うように身体を丸めて眠っているのがいじらしく…己の子を宿してくれた、尊くも清らかな妻に、邪な欲望を抱いてしまう己が酷く浅ましく思える。
(女子は子を宿せば自然と母の顔になるのだな……)