第85章 黒い影
備後国鞆は、瀬戸内の海の中央に位置し、仙酔島が天然の波避けになるなど、古くから『潮待ちの港』として、中国地方の海上交通における大きな役割を担ってきた地であった。
信長によって京を追われた義昭は、古くから足利家とも縁の深かったこの地へ落ち延び、鞆城と呼ばれている御在所に、仮の幕府とも言えるものを開いていた。
信長にしてみれば、京から追放した時点で足利将軍家など終わったも同然だったのだが、義昭の周りには、そうは思わない者も多かったようだ。
力のない名ばかりの将軍であっても、その名は尾張の成り上がり者よりは尊ばれるらしい。
裏でコソコソと『信長を討て』との御内書を送っては、反織田勢力を焚きつけて各地で謀叛を起こさせていたようだ。
その狡猾さは腹立たしいが、将軍という名の影響力の大きさは、信長も認めざるを得なかった。
(全く、いつまでも腹立たしい奴め。しかし、それも、もう終わりだ。此度は然るべき決着をつけねばなるまい)
ここに来るまでに、いくつか小さな小競り合いを制しながら、軍を進めてきた。
勅命の持つ影響力は大きく、ほとんど戦いもせず降伏した者もいたほどだった。
粛々と軍を進め、さしたる抵抗もなく鞆城を取り囲んだ信長らは、本陣にて軍議を開いていた。
「御館様…少し、妙ですね」
敵城の偵察をさせていた忍びから報告を受けた秀吉は、困惑した表情を隠せぬまま信長に、ことの次第を報告する。
「………妙、とは?」
「城内がやけに静かです。人の気配が感じられぬというか…義昭の下へは、それなりの軍勢が集まっているはずですが、そんな気配が感じられぬのです」
訝しげな秀吉の言葉に、信長も眉根を寄せる。
(……逃げられたか?……いや、勅命が出された今、もはや彼奴を匿える大名はいないはずだ。ならば……罠か?)
「どちらにせよ、このまま城を取り囲んでいても埒が開かん…攻めよ。秀吉、政宗と共に先陣をきれ」
「はっ!ありがたき幸せ!」
急ぎ足で本陣を出て行く秀吉を見送りながら、信長はゆっくりと床几に腰を下ろす。
(おそらく城はもぬけの殻だろう。この状況では籠城しても勝機はない。俺ならば城を捨て討って出て、相手の本陣に奇襲をかける)
だが、義昭にそこまで知恵が回るとは思えない。周りの側近どもにも、それほどの度胸はないだろう。
……手を組む者がいれば話は別だが。