第55章 どこかの記憶ー月光を待つ霞ー
「えー…」
少女が明らかに嫌そうな顔をした。
「……ダメなのか」
「師範がいいです…。ね?師範、私と手合わせしてください!」
「断る。先約がある。」
「そんな~!!」
師範と呼ばれる男は有無を言わさない。
「兄上はお忙しいんだ。私で我慢してくれ。」
弟の言葉に、少女はふくれた。
師範と呼ばれた男は自分に抱きつく少女の頭にそっと手を置いた。
「可愛い良い子ならわかってくれるな、稽古はまただ。」
それだけで少女はすっかり上機嫌になって、ぱっと男から抱きつくのをやめ、双子の弟の手をとる。可愛いと言えば少女はたいてい言うことを聞いた。
「しょうがないですね!私“良い子”ですから!絶対ですからね、師範!」
「すまんな、縁壱。」
「かまいません。」
縁壱と呼ばれたのは双子の弟だった。
少女は彼ににこりと笑顔を向ける。
「行きましょ、縁壱さん!ぼこぼこにしてさしあげます!」
「それは楽しみだ。」
縁壱は笑みを浮かべた。縁壱が手を差し出せば、少女はしかとその手を握り返す。
少し進んだところで、少女は先を歩く師範を振り返った。
「しはーん!手合わせ頑張ってくださいませー!!」
師への激励を送り、笑顔で縁壱と去っていく。
「前を見て歩け、阿国よ。また転ぶぞ。」
男は立ち止まり、そう答えた。
阿国と呼ばれた少女は、またにこりと笑った。