第55章 どこかの記憶ー月光を待つ霞ー
戦国の荒れた世に、ひゅるり、と風が吹く。
寂しい気配をのせて女の髪を揺らした。
少女は走っていた。どうも誰かを追いかけているようだった。
少女なのは一目でわかるのに、男物の袴を身に付けていた。それでも袖が余ることはなく、女にしては大きな体であることがわかる。目立ちはしないが袴から覗く四肢にはほどよく筋肉がついているのがわかる。
大きな空色の瞳に、漆黒色のまとめられた長い髪が特徴的で、肌は白く“痣”一つなかった。目と鼻がほどよい場所にあり、その顔は傾国の美女と言っても過言ではない。しかし、その姿はまだ幼さがあり、10代前半に見える。
その姿と似つかぬ日本刀が腰にさしてあった。
「師範!」
その顔が満面の笑みを浮かべる。
発せられた声は高く、幼さを強調した。
その先にはゆっくりと歩く、瓜二つな男の背中が二つあった。
少女はそのうち一つの背中に躊躇いもなく抱きついた。
「何をする」
ひんやりとした言葉遣いと異なり、その人から吹く風はひどく優しい。
「手合わせをするというのに、この私を置いていくだなんてひどいではありませんか!」
「……お前は朝に稽古をつけた。」
「何度でも稽古をしてほしいのです!」
負けじと背中に回した手に力をこめる。少女とは思えない力に、男が顔をしかめる。
「離せ。あと抱きつくのはやめろといつも言っているだろう。」
「師範が良いとおっしゃられるまで離しませぬっ!!」
「……いい加減にしないか…!!」
「いーやーでーすー!!!」
少女を引き離そうとするも、本気ではない。やればできるが、少女相手に乱暴なことをするほど男は無情ではない。
「私が相手になろうか。」
それを見かねた、隣の男が口を挟んだ。
少女が抱きついている男と瓜二つの顔であった。少女が抱きついているのは双子の兄で、話しかけた男は双子の弟だった。