第3章 百種の言そ隠れる
澄晴くんは、私の家で勉強中だ。
大学入学を期に、一人暮らしを始めて3年目。1kの部屋の真ん中、丸いローテーブルで、彼は英語の課題に集中しているようだった。明日、テストらしい。
そろそろ休憩してもいい頃合いだろう。キッチンで、この前、友人にもらったクッキーを皿に乗せ、麦茶のボトルを持って部屋へ戻る。
「澄晴くん、休憩どうかな?」
「ありがとう!疲れたー」
そう言って、彼はクッキーに手を伸ばした。私は麦茶を空になったコップに入れる。
「ねえ、葉瑠さんが俺を呼ぶときさ」
「うん?」
「ボーダーでは犬飼くん。二人のときは澄晴くん。分けてるじゃん。間違えたことないよね。混乱しないの?」
「そうだね。案外混乱しないんだよ。モードが違うというか」
『澄晴くん』と初めて呼んだときは、そりゃあ照れて恥ずかしかった。でも、慣れてからは、自然と使い分けている。二人きりのときは空気が変わるから、切り替えやすいのかも。
「じゃあさ、俺も使い分けるから、今は『葉瑠』って呼んでいい?」
「えっ」
「葉瑠」
「……」
「葉瑠、顔赤いよ」
何も喋れない私を見て、澄晴くんは口角を上げた。
「ねえ、葉瑠。こっからまた勉強頑張るからさ、応援して。キスしてよ」
「葉瑠?葉瑠ー」
ここぞとばかりに、名前を呼ばれる。こっちは名前を呼ばれて、照れだのトキメキだのでいっぱいいっぱいなのをわかってくれないか。いや、わかっているからか。
「澄晴くんのいじわる」
「好きな子には、いじわるしたくなる。ってやつだよ」
本当に年下なのだろうか。翻弄されてばかりだ。彼を黙らせるべく、年上としてこれ以上主導権を握らせないよう、まっすぐ距離を詰めて、ためらいなくキスした。
顔を少し離して、そっと、彼を見る。
ずるい。敵わない。
澄晴くんは、ただただ、嬉しそうな顔をしていた。素直な年下の男の子だった。
この花の一枝のうちに百種の言そ隠れるおほろかにすな(万葉集1456)