第8章 見えない心【*】
無言のまま名無しに近付けば、何かを感じ取ったのか名無しの回りの空気が少しだけ変わった。
「それ以上、私に近付くな」
はっきりとした拒絶。
久しぶりに見るあの冷たい視線に思わず息を呑む。
それでも歩を止める事は無く、そのまま壁際まで名無しを追いやる。
お互い視線を逸らす訳でもなく、ただ見つめ合う。
こんな風に近くで顔を見たり髪を解いた姿を見るのも随分と久しぶりだなとぼんやりと考えていたら、名無しの手が素早く動いた事に気付く。
顔に当たる寸前で避ければ、名無しの口から小さく舌打ちが聞こえた。
その隙に空振りした手首を掴み、壁に押し付ける様にして押さえ込む。
そのまま寝巻の隙間から覗く胸元に噛み付けば、少しだけ名無しの顔が歪む。
「…何のつもりだ?」
「噛めば少しぐらい表情が変わるかと思ったが…。思っていた程の効果はなかった様だな」
そう言えば、また強く睨み返される。
その瞳が心地良いと感じる自分は、どうやら少し変になっているらしい。
そのまま手首を引っ張り、敷いてあった布団に無理矢理押し倒し馬乗りの形になる。
自分のその行動に対してそこまで驚いたり動揺しないところを見る限り、やはりこういう事に関しての無頓着さが見て取れる。
その根本的な原因を作ったのが自分だと思うと、また少し違う感情が心の中に現れた。
「…夜伽を望むのなら、あの娘のところに行け。相手もお前の事を慕っているようだし、お前だって好きでもない女より、自分を慕う者を抱く方がいいだろ」
「………」
相変わらずの顔で、相変わらずの事を言うものだから、どうしてもその顔を変えたくて、名無しにとって一番効果的であろう言葉を耳元で呟く。
「イズナを重ねて見ていればいい」
そう呟けば案の定、瞬時に変わる表情に少しだけ笑いが漏れる。
まさか、知られているとは思ってもいなかったのだろう。
瞳は揺れ、自分が望んだ通りの表情になった。
何かを言いたげに薄っすらと開かれた口を塞げば、それと同時に瞳も強く閉じられる。