第5章 頬を伝うのは…
「好きなんだな。ユキが」
私を見るハイジくんの大きな瞳は、弱った心を包んでくれるような優しさに満ちていた。
「…好き」
それを聞くなり、頬を緩めて笑う。
「よし!やっぱり後ろ乗って。適当に走るから」
ハイジくんは私のバッグを自転車のカゴに入れて、サドルに腰を置いた。
「ほら」
「うん…」
促されるまま後ろに跨る。
「とりあえず走ろう。止まってると不安になるだろ?前に進むことだけに囚われなくていい。行き過ぎたと思ったら、また戻ればいい」
ペダルを漕ぎ始めたハイジくん。
止まってると不安になる―――。
それは、怪我で走れなかった時のことを言っているのかな。
顔を撫でる風が気持ちいい。
歩いてる時に見ていた景色が、ぐんぐん視界の外に流れていく。
どうやらハイジくんが向かう先はクロスカントリーの場所。
車通りはないから、昼間なら散歩やジョギングをしている人も多い。
ただこの時間ともなれば、きっと人は誰もいないと思うけれど。
お風呂上がりのハイジくんの髪からは甘いシャンプーの香りがする。
広い背中とTシャツから伸びる腕を見ていたら、あの日のことを思い出した。
ハイジくんの手に引かれ、抱き締められた夜。
彼の態度はあれからも何ら変わりない。
春の陽射しのように暖かく、優しくて。
会えばいつでも笑ってくれる。
あの夜のことは深い意味なんてなかったんだ。
きっと、ただ寝惚けていただけ。
本人に何か言うほど私も野暮ではないので、このまま胸にしまっておくことにした。
「下りだぞ!しっかり掴まってて!」
自転車が長い坂に差し掛かる。
ハイジくんの腹部に手を回し、ギュッとしがみついた。
「わぁっ!きもちいーいっ!」
「だろ!?」
悩んでいたことが振り切れるような感覚。
もちろん悩みはそのまま私の内にあるけれど、一人でとぼとぼ歩いていた時よりよっぽどいい。
30分程夜のサイクリングをして、私たちはまた元の場所へ帰ってきた。
「気持ちよかったぁ。すっごく気分転換できた!」
「それは良かった」
ハイジくんはあれこれ詮索もしないし、背中を強く押してくれる人でもない。
一歩を踏み出すために、ほんの少し手を引いてくれるような人だ。
「今日は本当にありがとう。あのね、私決めたことがあって。勝手なんだけど…」