第1章 ふわり、舞う
「あ、ハイジくん」
「おう、舞ちゃん」
「ニラ、良かったねー。今日もハイジくんにお散歩してもらって」
ワンッ。
うちの八百屋がある商店街とアオタケは、すぐ近くの距離にある。
だから学校やバイトの帰りにこうしてバッタリ会うこともしょっちゅう。
ハイジくんは、アオタケの大家さんが飼っている柴犬を散歩するのが日課だ。名前をニラという。
ニラはハイジくんのことが大好きで、いつも千切れそうなほど尻尾を振りながら街中を歩いている。
「どう?チームアオタケは? 」
「みんなにとっては箱根駅伝なんて、寝耳に水だからな。今一人ずつ口説き落としているところさ」
大きな瞳をキラキラさせて、ハイジくんは笑った。
「どんな人たち?」
「粒ぞろいだよ。陸上経験者は二人いるし、筋肉の質が良さそうな奴もいる。スポーツ経験者がいるのも大きいな。あ、山登りと山下りに向きそうなのもいてね。箱根の山を制するためには、これは重要なんだ」
「山登りに、山下り…」
聞き慣れない言葉だ。
素人にはわからないけれど、きっと平地を走るのとは勝手が違うということだろう。
「全員口説き落とすのは、成功しそう?」
「簡単には落とせないだろうなーって奴も一人いるんだけど。まあ、クールに見えて情に厚い奴だから大丈夫かな」
「そうなんだ」
「舞ちゃんたちが手伝ってくれることになって、助かるよ」
「ううん。役に立てることがあって嬉しい!運良く就職の内定貰えたから、時間もあるしね」
「舞ちゃんには特に色々聞いてもらってたからなぁ。走れない間の愚痴とか」
「愚痴なんて言ってた?」
「そのつもりだったんだが」
思い返してみても、愚痴と呼ぶようなことを彼が口にしていた記憶はない。
高校三年生の時に右膝を怪我して、走れなくなってしまったと言うハイジくん。
箱根駅伝常連校への推薦も決まりそうだったのに、怪我を理由に駄目になってしまったんだとか。
手術、リハビリ、療養…。走れなかった間の苦悩は私には計り知れない。
けれどハイジくんが口にしてきたのは、走ることへの情熱だけ。
後ろ向きな発言はもちろん、弱音なんて吐いたこともない。
この人は走ることを諦めていない。
それだけは、十分伝わってきた。
もしかして、あれをハイジくんは愚痴と思っているのだろうか。