第16章 6区
辺りはまだ明かりも射さない、人の気配も車の行き来もない、時が止まったかのような世界。
他に意識の行き場がないからか、頭を埋め尽くすのは数時間後にピークを迎えるであろう、プレッシャーのことばかり。
抱えていた不安が、吐き出す息とともに自然と口から零れ落ちた。
「僕もそうでしたよ」
短い返答が心に刺さった。
そこでハッとする。
自分が今、何を口走ったのか。
暗がりに佇む神童に目を遣ると、驚いた様子もなく、笑うでもなく、ただ真っ直ぐに俺の瞳と向き合っていた。
「ユキさんは、区間賞だって狙えます」
「……もっとリアリティのある励まし方しろよ」
「先輩はやると言ったことは必ず成し遂げる人なんです。司法試験も、駅伝も」
「試験と駅伝は違うだろ」
「言ってください、"狙う" って。区間賞」
体が回復してきたかと思えば無茶なことを…。
全くもって現実的ではない目標だ。
とは言っても、棄権と紙一重で走り抜いた神童にこれ以上情けない姿は見せたくない。
実現可能かどうかはともかく、せめて先輩らしいところも示しておきたい。
「……わかったよ。狙う。狙うよ。狙います」
「はい。もう大丈夫です」
「昨日、こんな風にお前を支えてやることができたら……」
決死の思いで中継ラインへ向かう神童に、俺は気の利いた言葉ひとつ掛けてやれなかった。
自分で自分を奮い立たせるしかなかったんだ、神童は。
それなのにこいつは、頼りない俺の胸の内を汲んで支えようとしてくれている。
「俺は、役立たずだ」
今ここにいる神童に比べ、自分はどうだっただろう。
神童のためにしてやれたことなんてひとつもない。
つくづく、そう思い知らされる。
ただ一緒に5区のスタート地点まで連れ添ってきただけ。
「どれだけ支えてもらっても、プレッシャーを跳ね返すのは自分しかいませんよ」
「……だな」
「でもユキさん、僕が走り出す瞬間までそばにいてくれたでしょう?心強かったです」
神童なりの優しさか、俺の心境を慮るがための慰めか。
一瞬偏った考えが浮かんだが、すぐに違うと改めた。
現に俺は今、神童が隣にいることで気持ちが鎮まっていくような感覚がしている。
昨日の神童もそうだったのだと、言葉のまま素直に受け止めればいい。
「だから今日は、僕がそばについてます。ユキさんがスタートするまで、ずっと」