第3章 ラブリーディストーション(徳川家康)
思い返してみると、物心ついた時には既に、欲しいものなんて無かった。
それ程全てが、満ち溢れていた。
望めば何でも手に入る環境は、逆に希望を喪わせるのだ、と気付いたのはいつだったか。
このままじゃダメだ、と。
仕事をさせて欲しい、と頼み込み父の会社に入ったものの。
遠巻きに、社長令嬢だと持て囃され、陰口を叩かれる中でまともな仕事など出来るはずも無かった。
そんな、ある日。
父に呼び出され、社長室の分厚い扉を力一杯ノックする。
入れ、という返事に、小さくため息をついた。
此処に呼び出される時は、大方用件が決まっている。
「遅かったな、。
愚女だが、うちの娘だ。
まだ決まった相手もなく、ふらふらとしていてね…
どうかな、君の嫁にでも!」
また始まった、と目を伏せる。
若い男性社員に自分を引き合わせるのを、何故か父は好んだ。
期待をかける社員への、おべっかのつもりなのか、何なのか知らないけれど。
言われた相手に本気にされて、付き纏われたことは数知れない…
彼らは配慮を知らず、出世欲に塗れ、周りが見えていない。
無遠慮で、無作法で。
私じゃなくて、その後ろにいる父の姿を見ているだけ――
「いえ、俺はそんなつもりはありませんので」
涼やかな声に、いつもと違う言葉に、弾かれたように顔を上げる。
気付けばこちらを振り向いていた、翡翠の眼と視線が交わる。
「はは、それでこそ、君だな。
これからも仕事に励んでくれよ、徳川くん」
首から下げられたIDカード。
徳川家康、と名前が読み取れた――