【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】
第6章 冬:二度目のはじまり
──走っていた。
普段ならとても考えられない全力疾走。あまり速度は出ていなかったけれど。
ナオミの語った恋愛ドラマの情景。愛した女のために走る男の気持ちがわからなかった。けれど、今の乱歩ならわかる。
──早く、会いたかった。
思えば、はじめから恋だった。
乗り方のわからない鉄道で、たったひと駅先の喫茶店。彼女に会うためだけに、中島や谷崎に幾度も教えを乞うて、やっとその駅にだけはひとりでも辿り着けるようになった。
誰かのために何かをしたいと思えたら、それは愛だと与謝野が言った。
自分のために誰かを愛することもまた愛足りえるとも言った。
思えば、今この思いはたしかに愛だった。
安アパートの、彼女の部屋の前に立つ。中には人の気配がした。はじめはチャイムがないことが気にかかったけれど、そんなことはどうだってよかった。
中の彼女に恐怖感を与えないよう、ゆっくり慎重に、木製の扉を叩いた。人の気配が身じろいだような気がした。
「……僕だ。開けてとは言わないから、聞いていて」
やわらかく、できるだけ不安を与えないような声音を心がけた。こんなにも人の気持ちに配慮したことが未だかつてあっただろうか。
「あのときは、君に──成美に、つらい思いをさせたと思う。反省……後悔してる。
──本当に、ごめん」
成美は、ただ聞いていた。少し疑ったのも事実だ。あれだけのことがあって、乱歩がまた自分に会いに来てくれるとは思えなかったから。
「社長に、嫉妬した。僕の知らない君を、社長は知っていたから。でも、それも君を襲っていい理由にはならない」
いつもの賑やかさからは想像もつかない、凪のような乱歩の態度に、成美は少しだけ心配になる。乱歩の様子が、まるで憔悴しているようだったから。
とにかく表情をひと目確認したくて、成美は鍵を解いて扉を開けた。襲われてもいいと思っていた。どんな理由であれ、抱いてもらえるのが嬉しかった。
──少し、期待もしていた。
乱歩の言葉が、〝嫉妬〟という罪の言葉が、勘違いかもしれなくても、傷つくかもしれなくても、成美を激情に駆り立てた。