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【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】

第6章 冬:二度目のはじまり






カランカラン、ドアベルが軽やかに鳴らして、男──福沢は喫茶店にやってきた。
見慣れない和装の男の登場に、店のマスターが目を見張る。


「いつも、乱歩──江戸川乱歩の座る席はどちらか」
「江戸川さんのお知り合いですか。あちらの、いちばんはしになります、どうぞ」


成美の姿はない。けれど、カウンターに立つ彼女の姿は容易に想像できて、福沢はつい目を細めた。

成美とは、もう五年も会っていなかった。文のやりとりひとつでさえ、すべての関係を断ち切ることを彼女自身が望んだからだ。

──いつか街のどこかで偶然会えたら、そのときに、私はこんなに幸せになりましたって、胸を張って言えるようになりたいんです。

福沢の中で、成美は思い出だった。うら若き肢体でさえ、思い出にしかなりえなかった。歳のせいか、それ以前の問題か、福沢にとって成美は娘のような存在であった。


「──貴殿は、成美から福沢という名を聞いたことがあるだろうか」
「福沢さん……ああ、成美ちゃんの恩人のことですかね。命に代えても返しきれない恩があるとかで。あとは、そうだなあ、──初恋の人だと、言っていましたよ。思い出の人だと」
「……そうか」


安堵の息が漏れ出たのは、成美が自分と同じであったことがわかったからだ。ずっと、成美の中でも自分がきちんと思い出になっているかが気がかりだった。けれど、心配は無用だったようだ。


「失礼ですけれど、あなた、成美ちゃんの知り合い? いえ、たまにいるんですね、成美ちゃんに不躾に声をかける胡乱な輩が」
「いや、私は乱歩の、江戸川の上司にあたる。成美とは、昔仕事の関係で知り合った」
「そうですか、それなら安心だ。いえね、成美ちゃんが先週、一週間暇がほしいと言ってきて、様子がおかしかったのだけど、何か知りませんか。江戸川さんのところに遊びに行くと言った翌日なんですがね」
「……いや、すまないが私は何も」
「僕も、常連のみなさんも心配しているんですがねえ。そういえば、江戸川さんもあれから来ないなあ」


福沢は何も注文せずに帰ることを詫び、礼を言ってから店を出た。乱歩に、今すぐにでも訊かなければならないことができたからだ。



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