第1章 継子
「ほら舞千さん、今のうちにお風呂にいってらっしゃい」
師範と私が脱いだ草履を靴棚に収納しながら、手当てはそれからね。と言って片目をつむって見せた雛鶴さん。
美しすぎるその姿に危うく恋に落ちそうになり、だらしなく口が開いてしまった。
「今日、蟲柱の胡蝶様から柚子をいただいたの。その皮を湯船に浮かべてあるから、お肌にもいいしきっといい香りがするわ」
「ほんとですか!?わああ、素敵です!」
甘酸っぱくて、さわやかな香りの柚子の皮を湯船に浮かべて湯に浸かるなんて…女子にとっては至福のひととき。
柑橘系の香りは大好きだから、とても楽しみだ。
「ほォ。んじゃあ胡蝶に礼を言わねぇとな」
「そうですね。たくさんいただいたので、明日は甘味も作ろうと思ってます」
雛鶴さんが作る甘味……聞いただけで涎が溢れてくる。
お腹がすいているから尚更だ。早く食べたい。
いや、その前にお風呂だ!と意気込んだ私は、お風呂に行ってきます~!と満面の笑みを二人に向ける。
ゆっくり浸かってらっしゃい、とおしとやかに手を振る雛鶴さんにお礼を言って、早足でお風呂場に向かった。
カラリと戸を開けて浴場に入れば、瞬間にふわりと香ってくる柚子の優しい香り。
わああっ!とお風呂に歓喜の声を響かせて、それからうっとりとその香りを深く吸い込み、堪能する。
体を湯で軽く流し、さっそく柚子の皮がぷかぷかと浮かんでいる湯船に浸かった。
「うぅ、しみる…」
しかし、小さな切り傷たちにお湯がしみて…地味に痛い。
派手ではない。地味だ。
けれど時間が経つと、じわじわとゆっくり、感覚が傷の痛みに慣れてきた。
うーんと体を伸ばせば、またふわりといい香りが鼻腔をくすぐり、そして抜群に適温な湯のおかげで、今日一日分の疲れた体も癒されていく。
「はぁ…」
何だか今日は、短いようで長い一日だった。
体力の限界まで続ける稽古が終わったと思ったら、休む間もなく鬼と遭遇し、自分より強い鬼とも対峙した。結局私では勝てず、師範が来てくれなければ私は死んでいたかもしれないのだ。
音柱の継子だというのに…なんて情けないんだろう。
「…なんかさぁ…何だろうね、物語の中盤みたいなこの疲労感」
両手ですくった湯に聞いてみても、掌から零れ落ちるだけで。
ただ虚しさだけが残った。