第95章 バケモノ<肆>
一方、禰豆子と共に下に落下した炭治郎は、咳き込みながらも何とか禰豆子をなだめようと考えを巡らせていた。
しかし何度呼び掛けても、禰豆子は炭治郎の声を聞いてくれなかった。
(だめだ、俺の声が届かない。全然聞いてくれないよ。どうしよう、母さん・・・)
炭治郎の脳裏に母の姿が浮かんだ、その時。先ほどの宇髄の言葉が蘇った。
『子守唄でも歌ってやれ』
子守唄。かつて母が、自分や兄弟妹たちの為に歌ってくれた歌を炭治郎は思い出した。しかし、汐の歌も聴いてくれなかった禰豆子が、聞いてくれるだろうか。
考えている余裕はなかった。
「こんこん・・・小山の、子うさぎは、なぁぜにお耳が長ぅござる・・・」
炭治郎の口から、拙い歌声が零れだす。少し調子の外れた、しかしとても優しい歌声だった。
「小さいときに、母さまが、長い木の葉を食べたゆえ、そーれでお耳が長うござる・・・」
すると、あれほど激しく暴れていた禰豆子の動きがぴたりと止まった。彼女の頬に温かい両手が添えられるような感じがした。
その瞬間、禰豆子の記憶が一気によみがえった。
『こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお目々が赤ぅござる。小さい時に母さまが、赤い木の実を食べたゆえ、そーれでお目々が赤ぅござる』
それは幼い頃、生まれて間もない弟と共に山菜を取りに行った時の事だった。
『お兄ちゃんのお目々が赤いのは、おなかの中にいた時に、お母さんが赤い木の実を食べたから?』
母の手を握りながら幼い禰豆子はあどけない笑みで問いかけると、母はにっこりとほほ笑むのだった。
禰豆子の目から涙があふれ出したかと思うと、彼女は子供のように声を上げて泣きだした。
その涙が鬼の力を洗い流すかのように、身体の文様は消えみるみるうちに幼子の姿になった。
そしてそのまま、禰豆子は寝息を立て始めた。
「寝た・・・母さん、寝たぁ・・・。寝ました、宇髄さん・・・。寝たよ、汐・・・」
炭治郎は安堵のあまり腰を抜かしそうになったが、残してきた汐が傷を負っていたことを思い出した。
「そうだ、汐・・・。汐の怪我の手当てをしないと・・・」
しかし禰豆子を抱えたまま戻るわけにもいかず、炭治郎はどうしたものかと上を見上げた時だった。
突然建物が大きく揺れ、壊された窓から何かが飛び出してきた――。