第92章 バケモノ<壱>
汐達が吉原に潜入していたある日の事の別の場所では。
「はぁ・・・」
食事をしていた甘露寺は、小さくため息をつきながら箸をおいた。それを見て隣に座っていた伊黒は、慌てた様子で彼女に問いかけた。
「どうした甘露寺。具合でも悪いのか?いつもより食が進んでいない様だが・・・」
そう言う彼だが甘露寺の前には既に空になった丼が五つほど積み上がっていた。しかし、伊黒はいつもの彼女なら十杯は軽く平らげることを知っているため心配になったのだった。
「あ、ごめんなさい伊黒さん。そうじゃないの。その、しおちゃんのことを考えていて」
汐の名前が出た瞬間、伊黒の目が微かに見開かれた。
「あの子に稽古をつけていてわかったのだけれど、しおちゃんは普通の人よりもずっと我慢強い子なの。痛みに強いって言った方がいいかしら。それは悪いこととは言い切れないのだけれど、我慢しすぎてしまうことが多いから心配で」
そう言って目を伏せる甘露寺は、弟子を気遣う師匠の顔つきをしていた。その凛とした姿に伊黒は胸を高鳴らせつつも、悩む彼女を見ていられなくて思わず口を開いた。
「心配することはない。あいつは言動も態度もいいとは言い難いが、何者にも媚びず屈しない姿勢は評価に値する。最も、あの下品な言葉遣いは目に余るがな」
呆れたように言う伊黒をみて、甘露寺は微かに頬を染めた。そして店の店主にお代わりを頼みながら、汐の無事を強く祈ったのだった。