第82章 幕間その伍:産屋敷輝哉の頼み事
見事なまでの満月がかかったその夜。産屋敷輝哉は、窓の外からその景色をそっと眺めていた。
その目がその光景を映すことはないが、微かな光は彼の中に確かに届いていた。
そんな彼の口から柔らかな歌声が零れだす。それは昼間、汐が彼の前で披露したわらべ歌だった。
「失礼いたします」
そんな彼の元にやってきたのは、彼の妻である産屋敷あまね。真白な肌に同じくらい真っ白な髪色の、とても美しい女性だった。
彼女は歌を奏でる夫を見て少しだけ目を見開くと、そっと飲み物を彼の傍に置いた。
「それはあの方の、青髪の少女の歌ですか?」
「ああ、どうも耳に残ってしまってね。知らず知らずのうちに口にしてしまっていたようだ。しかも、それだけじゃない」
輝哉は不思議な笑みを浮かべながら、あまねの方を向いた。
「いつもなら満月の夜になると発作が起きやすくなるはずなのに、今夜に至ってはそれがない。とても気分が穏やかなんだ。こんな気持ちのなったのは何時ぶりだろう」
そう言う彼の表情は本当に穏やかで、あまね自身もこれほどまでに穏やかな姿を見るのは久しぶりだった。
「彼女の歌のせいかな。ワダツミの子。本当に不思議な少女たちだ。まるで、触れれば消えてしまう泡沫のように・・・」
輝哉の少し切なげな声は、風に乗り空へと消えてゆき、そんな彼の背中をあまねはそっと支えるのだった。
そしてしばらくの間、産屋敷邸では汐の歌が流行っていたのだが、それを汐が知ることは決してなかった。