第2章 嵐の前の静けさ<壱>
飛び込んだ瞬間に生じる泡の壁が晴れると、そこには地上とは全く違う世界があった。
色とりどりの魚や様々な形の海藻が入り乱れ、白と橙が交じり合う光が帯となり降り注いでいる。
そんな海中を影が横切る。それは魚ではなく、一人の人間だった。
海の底を髣髴させるような深い青色の髪を靡かせて、優雅に揺蕩うその姿はは、まるでおとぎ話に出てくる人魚のようであった。
名は大海原汐(わだのはら うしお)。近くの漁村に、養父と共に暮らしている。
体つきがよく、見た目は男子のようだが、れっきとした女子である。
彼女の朝は早く、日が昇り切る前に起きて日課の海中散歩を楽しむ。そしてそのついでに、朝餉のおかずになるものを取ってくる。
こんな生活を始めて、もう何年になるだろう。それほど長い間、汐は海と共に暮らしてきた。
幼い頃浜辺に打ち捨てられていた彼女は、たまたま通りかかった彼に拾われた。しかし体が非常に弱く、医者の話では数年生きられるかわからないほどであった。
そんな中、養父は彼女に『特別な呼吸法』を教えた。それは病弱だった体を強くし、日常生活は勿論、海を縦横無尽に泳ぎ回れるほどになった。
だが、その呼吸法がもたらしたのはそれだけではなかった。
それは、非常に高い身体能力と、常人をはるかに超える肺機能の強さであった。そのため、一度潜れば数十分は息継ぎをしなくても活動できるのだ。
その特技のおかげで、村人たちの生活は以前よりもはるかに豊かになったといっても過言ではない。